第八章
翌週、すなわち当月第三週の木曜日、綾木孝二郎は、長野市の西野グランド・ホテルの客となり、午後三時、1336 号室にチェックインした。三時半ごろ、石田肇が孝二郎の部屋の扉を叩いた。廊下には、石田商店店員の五反田裕太と、その妻沙織が一緒にいた。
「工事で道が混んで遅れたらどうしようかとヒヤヒヤしましたよ」石田がいった。
「大丈夫、充分間に合いますよ。例の機械と材料は持ってきましたね」
裕太の前に、機械類を載せた台車があった。「顔見知りの担当員に頼んで、アクセサリーの展示会のときに使う裏口から中に入れてもらいました」と沙織がいった。
台車に載せであるのは、小型の金属彫刻機とこれも小型の特殊な印刷機だった。石田と裕太は台車を室内に運び入れた。材料というのは小さな金属板だ。沙織はバッグからそれを出した。西野ホテルの部屋の鍵ホルダーと同じ形をしている。
石田が孝二郎に、臼井助役がいつもどのようにして県庁の担当者から資料を受け取るかということを話したのは、先日、彼を小学校に案内したときだった。石田によると、役場の田宮が県庁の同僚から聞きだした話として、臼井はこれまでもたびたび県庁の島田という男に資料を作らせていて、資料の受け渡しは、決まって西野グランドのチェックイン・カウンターを通して行なっているということだった。それは臼井の指示だという。島田という名前は、孝二郎が県庁の柴崎と会ったときに聞いた担当者の名前と一致した。当日西野グランドに一泊した孝二郎は、浜中というボーイを呼び出してもらった。木村さつきの同級生で、石田が制服を借りる約束を取り付けた若者だ。孝二郎は彼から、カウンターで資料の入った封筒を渡され、臼井の泊まっている部屋のドアの下に差し入れたことが幾度かあるという貴重な話を聞きだした。臼井が西野グランドを予約しているということは、今回も同様なやり方で資料が渡される可能性が高い。孝二郎の作戦は、臼井に資料が渡らないようにするのではなく、渡った資料に少しばかり細工をして、翌日の委員会に使えないようにするというものだった。
石田がいうようにホテルで資料を奪ったりすれば、あとで警察沙汰になる恐れがある。臼井を脅すといっても開き直られる可能性があるし、今の時点でこちら側の正体を知られるのは得策ではない。また、ホテル側に気付かれずに資料を奪えたとしても、島田の資料作成そのものを止めない限り、臼井が委員会の前に島田から再度資料を受け取ればそれで済んでしまう。それよりもスマートなのは、資料を会議で使えないようにすることだ。臼井には委員会の直前まで、その資料が使えるものと油断させておかなければならない。木村さつきによると、臼井はパソコンが使えない。だから直前に使えないことが分かっても、臼井が電子的に資料を入手するには役場の誰かに頼まなければならず、かなりハードルが高い。今月の産業建設委員会は第三週だが、通常は第二週の金曜日だ。だから直前に資料が使えないと分かれば、石田と井上の小学校改築プランを臼井は知らないし、委員会の議案にも上がっていないのだから、自分の案件を翌月の委員会に先送りしても問題ない、と判断するはずだ。柴崎の話では、この特養の域外整備の案件はまだよく条件が整っておらず、島田は資料作りを先延ばししたがっていたというから、臼井も資料が使えなければ無理はしないだろう。孝二郎は先週の半ばに再び飯森町を訪れた。今度は新幹線を使った日帰りで、目的は、石田不動産の店で今日と同じ三人を集めて当日の作戦を確認することだった。
石田と裕太は、金属彫刻機と印刷機を台車から下ろし室内に設置した。孝二郎は県庁の柴崎に電話を入れ、島田の資料がまだ県庁にあることを確認した。孝二郎は今回、島田の資料がホテルに着くのは今日の午後八時過ぎ、つまり臼井が確実に部屋にチェックインしてからになるよう、柴崎に特別に工夫してもらっているのだ。沙織は彫刻機の調子を調べてそれが問題なく動くことを確認した。裕太は洗面所で、浜中から借りたボーイの制服を着た。浜中は今日休暇を申請し休んでいる。「よく似合うな、体格がだいたい同じだからお前を選んだんだけど、うちを辞めたらホテルのボーイになるってのはどうだ?」石田が冗談を飛ばした。
孝二郎は、鞄から先週吉祥寺で入手した小物を出し、ベッド脇の鏡台に向かって顔や頭にそれを付けている。鏡の前には引き伸ばされた臼井助役の写真が数枚あった。変装しているのだ。「先日聞いとときは半信半疑でしたが、初めて見ましたよ、人が変装するところを!」石田が興奮していった。
孝二郎はこれまでも時々変装によって事件を解決したことがある。手際よく禿げた鬘の生え際を直し、化粧と白粉、その他の材料で臼井助役の顔を作っていく。顔の輪郭はそれほど変えなくて良い。写真を見ながらその刺のある表情を真似る。引き伸ばされた臼井の写真は、飯森ワイナリーにいる時に孝二郎が気付かれないようにスマートフォンで写したものだった。
およそ一時間後に変装が完成すると、「よく似せられるものですね。まるで臼井助役がいるみたいだ」と石田がいった。「いやあ、驚きました!本当にヤツに似てますね」
次に孝二郎は、鞄から古びた上着やワイシャツ、地味なネクタイや草臥れた革靴を取り出し、洗面所でそれに着替えた。背こそ臼井よりも高いが、猫背になればそれほど変わらない。孝二郎は鏡のなかの臼井助役にまずまず満足した。臼井をよく知る人には見破られるだろうが、ホテルのチェックイン・カウンターで彼と話した程度では別人に見えないだろう。
洗面所のドアを開けて部屋に戻る。孝二郎は猫背になって窓際まで歩き、臼井の声色を真似て「そろそろ時間だよ君、臼井がチェックインするのは五時前後のはずだからそろそろ下で待っていなさい。かれは君の顔を知らないから、側でかれの泊まる部屋番号を確認するんだったね」と裕太にいった。
「なんだか気味が悪いっすね、臼井助役から言われているようで」裕太がボーイの制服の袖を引っ張りながらいった。彼は幾度か臼井と話したことがあった。「まるで別人だわ」沙織がすこし背の高い臼井を見ている。「よくやるな、ここまで」石田が感嘆していった。
「ホテル側に怪しまれないようにね」孝二郎は自分の声に戻って裕太にいった。「これだけの大きなホテルだと、新入りですといった態度でいれば、制服を着ているんだから案外わからないものさ」
一時間後、裕太が部屋に戻ってきた。「やりました!1025室です。横に立っていたら、カウンターの人に荷物を運んでくださいって言われちゃいました。だから臼井と一緒に部屋までいって荷物を置いてきました。臼井はまったく僕だということに気付きませんでしたよ」裕太が愉快そうにいった。
孝二郎は1336号室の鍵を沙織に渡した。アクセサリー作家の沙織はなれた手付きで金属彫刻機を操り、先程の金属板を使って1025と記された鍵ホルダーを作り始めた。しばらくして本物そっくりの鍵ホルダーが出来上がった。孝二郎は用意した西野グランドのものとよく似た別の鍵をそのホルダーに付けた。
「さて、さっき柴崎さんに様子を聞いたら、県庁の資料は予定通り八時過ぎにホテル・カウンターに届くということです。それまですることがないから、ホテルの裏口から外へ出てみんなで食事でもしましょうか。石田さん、どこか美味しいところを知りませんか?裕太くんは一旦もとの服に着替えていいでしょう。でも私はこの恰好で出かけますよ、慣れるためにね」といった。
……臼井峰雄はその日、五時ごろ西野グランド・ホテルに着いた。まだ県庁からの資料が届いていないのを知ると「届いたらいつものように部屋のドアから差し入れておいてくれ」とだけいって部屋の鍵を受け取った。ボーイに荷物を部屋に運ばせる。慣れない新入りのボーイなのだろうか、エレベーターの行き先階ボタンは自分で押さなければならなかったし、フロアーに着いてからは部屋が廊下のどちら側にあるか知らなかったけれど、これからやることを思えばそんな些細なことは気にならなかった。いつものように地元クラブのホステスを部屋に呼ぶ。一晩お楽しみのあと、翌朝、臼井は部屋のドアの下に差し入れられた封筒を確認した。封筒にはいつものように島田が作成した資料が入っていた。『東京瀬田区特別養護老人ホームの域外整備候補地について』と題されたその資料を見ると臼井は満足げに頷いた。それからふたたび女のいるベッドに戻った。<続く>