第三章
木村さつきが店から帰ったあと、石田は、生半可な情報で後輩の杉浦を見限ろうとしていた自分を反省した。役場でなにが起っているのかは分からないけれど、ここで後輩のために一肌脱ごうと思った。それに、思い出の詰まった小学校校舎を取り壊されるのは一大事だ。見過ごすわけにはいかない。首尾よくいくかどうか分らない。失敗するかもしれない。しかしどうせ後継者などいないわけだし、そうなったらはじめに掲げた理念を取り下げて店をたためばいいと石田は覚悟を決めた。「そうだ、あいつに相談しよう」石田はつぶやいた。まだ嘱託で東京の不動産会社に残っている元同僚、川添徹のことを思い出したのである。
石田はさっそく川添に電話を入れた。特別養護老人ホームの域外整備について尋ねると、不動産のベテラン嘱託は、前から予想されていたことながら、最近瀬田区だけでなく、都内全域で特養や老人ホームのニーズが急上昇していること、健康な老人たちのなかには空気のきれいな田舎に引っ越したいと思っている者もいるが、いまさら自分で別荘を建てる金もないから、いい施設があれば遠いところでも入りたがるだろうといった。よく考えれば楽観的すぎる所もあるが、それを聞いて、石田はさつきに電話で話したようなアイデアを思いついたのだ。
川添は娘のはるかに連絡を取ってくれた。瀬田区の瀬田美術館に勤めるはるかは、区役所の福祉担当課長とは顔見知りということだった。石田は娘のみどりに連絡し協力を仰ぎ、そのあと木村さつきに電話を入れたのだった。さつきとの電話を終えると、石田は時刻表を睨みながら、翌日みどりとはるかと三人、銀座で落ち合う段取りをつけた。
ここで飯森町のことを少し紹介しておこう。町は長野県北部にある。東西を山に仕切られた平坦な田園地帯で、人口は一万五千人、町の総面積はおよそ二十五平方キロメートルである。産業の中心は農業で、リンゴやぶどうなどの果樹園が多い。なだらかな西側の山裾にある鉄道駅(飯森駅)と、平地中央を鉄道と並行して南北に走る国道の間が中心街である。中心街といっても今はかなり寂れている。町長が期待した新幹線の経済的波及効果は残念ながらまだ現れていない。出来た駅の場所が少し離れた町にあったから飯森までなかなか人が来ないのだ。
翌夕、石田は新幹線で東京駅に降り立ち、その足で定宿のシズカ・ホテルにチェックインした。シズカは帝国ホテルにほど近い場所にある新しいホテルチェーンで、最上階に大きな浴場があるのが特徴だった。一風呂浴びてさっぱりしてから、石田は待ち合わせ場所の銀座四丁目のイタリアン・レストランへ向かった。そこは県のアンテナ・ショップ内にオープンした店で、飯森町を含めた地元の食材を中心としたメニューが並ぶ。レストランで二人と落ち合うと、さっそく石田は改めて事情を説明し、はるかに頭を下げた。
「いや助かるよ、はるかさんが仕事を辞めていたらどうしようかと思った」
「まだ頑張っていますのよ、みどりさん同様」川添はるかは眼鏡を掛けた理知的な女性だ。ショットカットのヘアをすこし茶系色に染めている。それに対して黒髪をアップにしたみどりはおっとりした感じだ。同い年のキャリアウーマンではあるけれど、対照的な二人だった。どちらも母親似で、石田は昔、川添に「二人とも父親に似ないでよかったな」と囁(ささや)いた覚えがある。
「よかったよかった」石田はそういって三人の飲み物を注文し、はるかに向かって「瀬田美術館の会員ネットワークなんか使えますかね?」と切り出した。
「会員ネットワークは流す情報に制限がありますから難しいですね」
「そこをなんとかできませんかね。会員はお年よりが多いんでしょ」
「ええ、まあ。でも個人情報ですからね、難しいと思います。それで、その老人ホームなんですけど」はるかがいった。「実は私のボーイフレンドの父親が、都内で老人ホームをいくつか経営しているんです。私の彼もそこの仕事を手伝っていて、区役所の福祉担当課長さんとはその関係でお会いしたんです。それでわたし、昨日彼に聞いてみたんです。そうしたら、会社ではどこか地方の老人ホームと提携して、エックスチェンジ・プログラムみたいなことができないかって検討しているらしいんです」
「エックスチェンジ・プログラム?」
「ええ、学生の交換留学みたいに、入居している人同士をある期間入れ替えるんです」
「なんでまた?」石田はきょとんとした顔できいた。
「そういうプログラムがあると、ホームの人気が高まるんですって。ああいうところに入っていらっしゃる人って、普段あまり旅行にいけないでしょ、だから地方のいいホームだったら旅行気分で出かけられるし、先方のホームも、年寄りのニーズに精通しているだろうということと、逆に地方の方に東京へ出てきて貰って一ヶ月でもお芝居を見たり買い物をしてもらえば、それはそれで喜ばれるんじゃないかって。勿論、ある程度自立できているお年寄りに限られますけど。入居者に聞いても、そういうのがあると嬉しいと仰る方が多いそうです」
「なるほど。ということは、今度飯森町で始める老人ホームと、そちらのホームとが提携して、お互いにエックスチェンジをやればいいんだ」
「勿論いろいろな条件をクリアーする必要があるでしょうが」
「ほかの地方でも、そういうホームがあったら声を掛けて輪を広げればいいわね」みどりがいった。
「そうだな。やみくもに営業を掛けるよりも、まずそういうプログラムがあって、その上で生活費が東京よりも安いってところをじわじわっと分ってもらえれば、移住したいっていうお年よりもそのなかから出てくるね」
「そうよ、いっぺん体験入居を済ませているようなもんですもの」みどりがいった。
「でも、飯森町のホームが、こちらさんのホームとだいたい同じレベルにないと駄目だな」
「それはそうですね」はるかがいった。「いちど彼とお会いになります?」
「ええ、是非お願いします。明日にでもお願いできれば」
「わかりました。ちょっと電話してきますね」はるかはそういって携帯電話を持って席を立った。
「よかったわね、はるかさんのお話があって。私、心配だったのよ、お年寄りに営業を掛けるなんて、いくらニーズがあったって、どこからはじめるのかしらって。美術館の会員を当てにするなんて無理よ、はるかさんもいってたでしょ」
「当って砕けろっていうのが俺の戦法さ」
「それって戦法じゃなくて覚悟だけでしょ」
「まあ、でも良かったじゃないか。来て話してみないとわからないんだよ、こういうのは」石田は得意げに鼻を蠢(うごめ)かし、客が増えてきた店内を見回した。
「そうとう豪華ですね」石田は斉藤利明と一緒に、彼の父親の経営する老人ホーム「ファミリア・瀬田」を視察したあといった。
「ええ、でもそちらのホームは素朴な感じでいいです。耐震さえしてあれば木造校舎はノスタルチックでいいと思いますよ。暖房やアメニティだけは最新のものにしていただいたほうがいいですけど」斉藤がいった。
「なるほど、アメニティ関係なんかどこのを使っているか教えて貰えますかね」
「いいですよ、こっちで発注して振り替えてもらってもいいですよ」
斉藤の車で最寄の駅まで送ってもらう途中、石田は「これから帰って井上、ああ、宅幼老所をいくつかやっていて今度老人ホームを作りたいって言っている若者ですが、彼に今日の話をしてみますわ」といった。
「わかりました」
「飯森はいいですよ、なにせ山や川がすぐ近くにありますからね」
「父とも相談した上の話ですが、もし井上さんが老人ホームを建ててうちと提携していただけるのであれば、投資のかたちで改装資金をサポート、といっても全額は無理ですが、させていただくことも可能だと思います」斉藤は若いけれど父親の仕事を相当任せられているようだった。
「そうですか、有難う御座います」
「はるかから聞いたんですけど、石田さんは最近まで戸部不動産にいらっしたんですね」
「ええ、三年前に退職して郷里に戻りました」
「戸部さんには弊社でもよくお世話になってるんですよ」
「そうでしたか」
「それで今度のお話を聞いたとき戸部さんの元社員さんなら安心だな、なんて父と話したんです」
「いや、あそこも大きくなっちゃってね。昔とは変りました。でもそういっていただけるとうれしいですね。まだ残っている同僚もいますから今度紹介しますよ」
「そうですね、宜しくお願いします」
「ところで瀬田区がこんど区外に特養老人ホームを作るらしいんですが、ご存知ですか?」
「へえ、そうなんですか」斉藤はまだそのことを知らない様子だった。
「なんでも法律が変って区外でも作れるようになったそうですよ」
「瀬田は土地が高いですからね。特養のニーズは増えていますから区外へということなんでしょう。老人ホームでも、瀬田の可処分所得は高いですから、値段よりもどれだけサービス内容で他と差別化できるかなんですよ。ところで飯森は新しい新幹線の駅からも近いんじゃないですか?」
「いや、ちょっとありますね。でも車ならそんな遠くないです」
「そうでしたか、あのあたりは土地勘がなくて」斉藤は髪をかき上げながらいった。
「私は地元ですからよく知っています。なにかご質問があったらお気軽にメール下さい」
「ありがとうございます」
「井上君のところの計画ができたらすぐにお送りします」
駅に着くと石田は運転席の斉藤の手を固く握り「急なお話にも拘らずご丁寧に対応していただき有難う御座います。いろいろとお世話になるかもしれませんので、その時はどうぞ宜しくお願いします」といってから車を降りた。
その夜飯森町に戻ると、石田はさっそく宅幼老所を経営している井上春人を自宅に呼んでことの次第を話した。石田の家は、店から車で十分ほど東南に走った高台にある。小学校の同級生が建てた蕎麦屋兼自宅である。彼が三年前、人口の減った飯森町から県庁所在地の長野市へ店を移したあとを居ぬきで借りたものだ。
井上は急転直下で進んでいる話にちょっと引き気味だったが、小学校の校舎を使えることに興味を示した。井上もその校舎で小学校時代を過ごした一人だったからだ。
「だろう、いい話なんだから。帰りの新幹線でだいたいスペックをまとめといたけど、まあ、はじめは五年間くらいの契約でどうかな。その先はもちろん双方合意で自然延長ありだ。アメニティは向こうさんのスペックに合わせて作る。向こうの客を受入れるんだからそうしないと駄目なんだ。だいたい春から秋に掛けて、毎月10人規模で来てもらう。あっちは複数ホームを持っているから入れ替わりで来てもらうことになる。初めの内は、こっちから行くのはなしでいいと思う。それは落着いてからでいい。募集要項にそう書いておけば問題ないだろう。地元と他から最低20人は集めて、デイサービスと宅幼老所で毎日10人くらい、規模は順次拡大するとして、それでなんとか十年ぐらいで元が取れるような計画できないかな。個室は全部で40室はいるね、予備も含めて。資金的には、厨房まわりは宅幼老所の延長ってことで、県から一千万までは出してもらえると思う。半分は老人ホームやグループホームからの依頼分として運営するけれど、それは逐次返済することにしておけば、初期投資分は持ってもらえると思う。部屋やロビーの改装費はざっと一億かな、勿論競争入札でやる。資金は入居者があれば先払いで少々、斉藤商事さんから10%、君のとことろが20%、俺も幾らかは持つよ。残りはファンドを組んで調達しよう。地元の岩田信用金庫でもいいし、頼りなかったら長野市の松長信金に頼んでもいい」石田はメモを見ながら一気にそう語った。
「もうカネの話ですか、まだやるかどうか親父や嫁にも相談しないと」
「勿論だ。でも『チャンスは前髪』っていうだろ。ぼやぼやしてると斉藤商事だってほかを当っているだろうから他所にとられちゃうぞ」
「町議会のほうはどうなんです?特養の話しがあるんでしょ。あれを進められたらチャンスもなにもないじゃありませんか」
「そうそう、それは俺が役場の人間を使ってでも止めさせるよ。あんな立派な校舎をぶっ潰すなんてとんでもねえ話だからな」
「そうですね、止められればいいですね」
「プロジェクトの目的には『町の歴史を刻んだ古い校舎を蘇らせる』ってフレーズを入れて欲しい。わかるだろ、きみもあそこの卒業なんだから」
「そうですね。学校を老人ホームに改築すれば、地元のお年よりも結構入居してくれるんじゃないかな、懐かしがって」
「おれもそう思う。空き家登録制度で移住してきた中にも、あの小学校がなくなってがっかりした若い家族が何人かいる。いい建物だもんな。プロジェクトのタイトルは『古い校舎に陽が昇る』で決まりだ」
「わかりました。じゃあ、私も親父と嫁を説得してこの話進めるようにしますわ」井上はそういって石田の家を辞した。<続く>