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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <平岡公威の冒険 7>

 <平岡公威の冒険 2>で紹介した横山郁代さんの『三島由紀夫の来た夏』(扶桑社)に、平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)の下田でのファッション・ショーのことが書いてある。といっても、それは下田の人々が平岡の水着や衣装に驚きの眼差しを向け「まるでファッション・ショーのようだ」と噂し合ったということなのだが、平岡は奇抜な恰好で下田の人々を驚かすことを楽しんでいたらしい。横山さんは、『平凡パンチの三島由紀夫』(新潮社)の著者椎根和氏との対談の中でもそのことに触れている。対談が収録された『完全版 平凡パンチの三島由紀夫』椎根和著(河出書房新社)から引用しよう。

(引用開始)

椎根 三島は、昭和三十九年から、自決する昭和四十五年までの七年間、夏休みには、必ずここ下田の下田東急観光ホテルのスイートルームに家族四人で滞在していましたね。
横山 下田のいくつもの海岸、ホテルのプールサイドでのふるまいには、下田の人々に、目をみはらせ、ショックを与えるものがありました。まだ男性は黒か紺の水着しか着ていない時代に、ヒョウ(豹)柄の、ワンショルダーの水着ですからね。外浦海岸で、長男威一郎クンを肩車して…、花道を歩くように、ビーチに登場したときには、ビーチの他の人は呆然として、どよめきがおきたそうです。(中略)水着ばっかりでなく、港のビット(船をもやう鉄製の杭)に腰をかけている姿も見たことがあります。白いマドロス帽に、白い半袖シャツ、白い靴、ソックスまで白で、肩には黒いハーフコートを引っ掛けて、葉巻を喫いながら、海を見ていました。恰好つけてるナって感じでした。
椎根 水着ショウばかりでなく、下田では、自分の理想のファッションショウもやっていたんですね。

(引用終了)
<同書 37−38ページ>

 ファッションといえば、先日ブログ『夜間飛行』「ファッションについて」「ファッションについて II」の両項でその特徴を論じた。時間があればお読みいただきたいが、エッセンスは、

1.ファッションは両価的(模倣と差異化)である
3.ファッションは“見られる者”が“見る者”に影響力を行使する
3.ファッションは最も模倣されやすいアート表現である
4.人は流行や時代精神をファッションによって追確認する
5.ファッション業の成功は流行の「少し先」を行くことにある
6.流行の遥か先を行くファッションは(模倣されないから)成功しない

と纏めることができる。

 ファッションの場合、模倣するとは“見る”ことであり、差異化するとは“見られる”ことである。普通ものを“見る”のは脳の働きであり、“見られる”のは身体の働きだが、身体そのものを表現媒体として使う場合、“見られる”ことの方が脳の働き(差異化)となり、“見る”ことの方が身体の働き(模倣)となる。ファッションは通常の“見る者”と“見られる者”の立場を反転させるわけだ。

 ブログ『夜間飛行』「平岡公威の冒険」で論じたように、平岡は最終的に「死」によって“見る者”(脳の働き)と“見られる者”(身体の働き)との同一化を図った。しかし、下田での彼は、ファッションを通し、“見られる者”(脳の働き)が“見る者”(身体の働き)に影響力を行使するという、その反転のメカニズムを楽しんでいたのだろう。

 一方、下田での休暇とは別に、<平岡公威の冒険 5>で述べたように、戦後日本の流行や時代精神は、平岡が考えるそれと異なる方向にどんどん進んでいた。下田はまだ牧歌的な雰囲気を残していたが、東京や大阪を始めとする都市では、父性の不在とマネー経済万能主義、モノ信仰と要素還元主義が蔓延していった。やがて平岡の下田ファッション(時代精神)は、流行の「少し先」を行くところから、遥か先を行く(もしくは時代遅れに見える)ところへ移行した。当時雑誌編集部にいた椎根氏は、昭和45年時点で三島に関する企画を提案したところ、編集長から「三島の人気のピークはすぎた。雑誌が古くさくなるから、それはやらなくていい」と言われたと書いておられる(『平凡パンチの三島由紀夫』249ページ)。

 平岡もこのことを認識していただろう。だが彼はそのまま、時代の遥か先に行きたくなった。<平岡公威の冒険 4>で書いたような阿頼耶識とユングとの合体、<平岡公威の冒険 6>で書いたような写真や映像における新たな実験、彼は時代の先取りを果したくなったのだ。彼からしてみれば、時代の方が勝手に自分から遠ざかっていったように見えたはずだから、いわば当然の選択だっただろうが。そうなれば周りの理解者は減る。

 しかし、平岡の職業は流行作家であった。生活費の全てを筆一本で稼がねばならなかった。時代の遥か先を行くことと、流行作家であることとの両立は難しい。彼は時代から大きく離れて生きることが出来なかった。<平岡公威の冒険 2>で書いたように、生活のレベルを下げ他のスキルを習得する期間をつくることは叶わなかった。つまり「三島由紀夫」という仮面を脱ぐことは出来なかった。

 平岡に残された道は、小説の世界では、時代の遥か先を行くであろう作品を残し、現実の世界では、以前から考えていた“見る者”(脳の働き)と“見られる者”(身体の働き)との同一化を実現するだけとなった。

 下田に遊ぶ平岡は、最後まで束の間の自由を堪能していたように見える(勿論内心悩みは大きかっただろうけれど)。再び『完全版 平凡パンチの三島由紀夫』から引用しよう。

(引用開始)

横山 下田の人をビックリさせたのはヒョウ柄水着ばかりでなく、紐だけのようなパンツも衝撃的でしたね。筋肉モリモリだから、イヤらしい感じは、まったくしませんでした。お腹は丸出しになるでしょう、そうして威一郎クンを腹筋の上にのせて、筋肉をピクピクさせると、威一郎クンはトランポリンの上にのったように大喜びしていました。それから、白いフンドシと赤いフンドシを日替わりで着ていたこともありました。(中略)下田には、三島さんが好きだったものは全部残っているし、三島さんを愛している方々は偶然やってくるし…。
椎根 聖地巡礼…。下田を三島の聖地といってもいいんじゃない…。下田東急ホテルの窓から、海を見たら…、誰でも、そう感じるものがありますね。

(引用終了)
<同書 37−53ページ>

平岡が古き良き日本が残る下田でそういう時間を持てたことを率直に喜びたいと思う。

 ところで、平岡の気持ちが時代から離れ始めたのはいつ頃からだろうか。勿論、戦後当初から違和感はあったのだろうが、はっきりしてきたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック前後からではないだろうか。小説作品的には、

1959年(昭和34年)『鏡子の家』
1960年(昭和35年)『宴のあと』
1961年(昭和36年)『憂国』
1962年(昭和37年)『美しい星』
1963年(昭和38年)『午後の曳航』
1964年(昭和39年)『絹と明察』 
1965年(昭和40年)『三熊野詣』、『春の雪』連載開始
1966年(昭和41年)『英霊の声』
1967年(昭和42年)『奔馬』連載開始

と続くうちの、平岡自身が「精神的な沈滞期にあった」という短編集『三熊野詣』執筆の頃だ。そこに至るまでの数年間、『鏡子の家』の文壇的失敗、『宴のあと』の裁判、嶋中事件(昭和36年)、『喜びの琴』を巡る文学座分裂(昭和38年と39年)などのトラブルが平岡の身の回りで立て続けに起った。

 この1964年(昭和39年)の夏から、平岡の下田行きが始まっている(『三熊野詣』には下田を舞台にした短編『月澹荘綺譚』も含まれている)。下田に通いは始めたときから、そこでの楽しい生活をばねとして、平岡の精神は時代の遥か先を見据えて動き始めた。<平岡公威の冒険 6>で見た彼の写真や映画に関する活動もこの頃から本格化する。映画『憂国』は1965年の製作である。そういう意味においても、平岡に活力を与え続けた海辺の町下田は、まさに彼の「聖地」といえるだろう。

参考:

平岡公威の冒険」(『夜間飛行』)
平岡公威の冒険 2>(『百花深処』) 
平岡公威の冒険 3>(『百花深処』)
平岡公威の冒険 4>(『百花深処』)
平岡公威の冒険 5>(『百花深処』)
平岡公威の冒険 6>(『百花深処』)
「百花深処」 <平岡公威の冒険 7>(2016年03月09日公開) |目次コメント(0)

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