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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <日本の戦後の父性不在>

 先日<平岡公威の冒険 5>の項で、日本国民における戦後の父性不在(国家統治能力の不在)について書き、それは日本国の権力者が米軍に従属する道を選んだからだと書いたけれど、国民の側こそなぜそれを諾々と受入れてきたのか、という視点でこのことをもう一度考えてみたい。以下、幾つか仮説を用意してみた。列記しよう。

(1)  環境中心の考え方

先日ブログ『夜間飛行』「環境中心の日本語」の項でも書いたけれど、日本(語)人は、物事を与えられた「環境中心」に考える。だから米軍に従属する道を「環境」として与えられた国民の多くは、それを前提として捉えてしまう。

(2) 優秀な人材は経済復興に

環境中心ではなく主格中心に考えることの出来る日本人もいるけれど、戦後、彼らの多くは国家統治よりも産業復興に向かった。高度成長期以降、それらの人々が国家統治能力を発揮する方向へ向かえばよかったが、裕福になったことも手伝ってそうはならなかった。

(3) 認知の歪み

人々はまた、スポーツ、スクリーン、テレビ、雑誌などによる様々なソフトパワーや情報操作により、米軍に従属する道こそ日本の安全につながるという「認知の歪み」に陥(おとしい)れられる。

(4) ヤンキー化

一部威勢の良い若者もいるが、美意識として都会的な高揚感を学ぶことなく(欧米流の近代合理主義を消化できず)、自然に偏した野卑のままヤンキー化する。

(5) 老人の隠居

老人の多くは(国家統治能力不在に気付いても)家族や仲間たちとの居心地の良い環境を優先し、日本的美意識である「寂び」への憧れからやがて隠居生活に入ってしまう。

(6) 国家理念不在

どういう国にしたいのかというこれからの日本の「大きな物語」を描くことが出来ていない。国民の間にそういうことに関するコンセンサスがない。

 以上だが、当らずとも遠からずではないだろうか。ヤンキーや寂びの話は『百花深処』の以前の項で論じた。併せてお読みいただきたい。高度成長期のあと社会の成熟が齎される筈だった頃、(2)の人々が国家統治能力不在に対して何もして来なかったことが残念だ。長く続いた高度成長に目が眩んだのだろうか。

 そうはいってもまだ遅くはない。(1)から(6)までについて対策を練り解決を図っていけば、やがて国家統治能力は回復する筈だ。私もブログ『夜間飛行』の方でいろいろと提案している。
「百花深処」 <日本の戦後の父性不在>(2015年12月18日公開) |目次コメント(0)

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