平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)について、以前<
平岡公威の冒険 3>の最後に、
(引用開始)
平岡は、「何か」に急かされるようにして、クロスジェンダー的表現に対する慎重なアプローチを途中で投げ出した。それが何だったのか、項を改めてさらに探ってみたい。
(引用開始)
と記した。そしてその「何か」の一つとして、<平岡公威の冒険 4>で「熱狂時代の先取り」について書いた。
ここでもうひとつの「何か」を提出したい。それは戦後日本の「父性の不在」である。
昭和45年7月、サンケイ新聞に載った平岡の「私の中の二十五年」には、冒頭、
(引用開始)
私の中の二十五年間を考えると、その空虚さに今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終るだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。
(引用終了)
<『蘭陵王』(新潮社) 326−327ページ>
とある。以前私は、<
日本の女子力と父性について>の項で、
(引用開始)
戦後@、戦後Aを通じてもっとも明白なのは、日本国民の間の「父性の不在」だろう。ここでいう父性とは国家(国民の居場所・機構)統治能力、国家権力構造を担う能力を指している。日本国民は戦後、それを他(天皇・米軍・官僚)に任せて(奪われて)きた。
(引用終了)
と書いたことがある。戦後@、戦後Aとは、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治著(集英社インターナショナル)にある、
戦後@(昭和後期):
天皇+
米軍+官僚+自民党
戦後A(平成期):
米軍+官僚
という国家権力構造の変遷を示す。
昭和20年以後、日本国民は、その父性としての国家統治を、天皇・米軍・官僚に任せきりにしてきた。形だけは独立国家、民主政治国家ではあるが、実態としての日本は、米軍の支配下にある植民地国家に過ぎない。政治家や知識人の多くはその事実を知りながら政治体制を正そうとしない。この状況こそ「戦後民主主義とそこから生ずる偽善」そのものだと私は思う。
戦後日本の「父性の不在」。昭和45年の時点で平岡はそれに耐え切れなくなった。
同年11月25日、楯の会同志五人と陸上自衛隊東部方面総監部で自衛隊の覚醒と決起を促すも果さず、天皇陛下万歳を三唱して割腹自殺。その行動を裏付けるために援用されたのがユングだった(<
平岡公威の冒険 4>)。平岡は、日本人の集合的無意識に眠っているはずの文化概念としての天皇を引き合いに出して、自衛隊(と日本人)に「戦後民主主義とそこから生ずる偽善」からの覚醒を促したわけだ。
戦後日本の姿を今一度振り返ってみよう。戦争に破れると、国(state)は主に以下の人々よって形作られた。
〔1〕
@ 一人の占領軍司令長官(米国軍人)
A 一握りの理想家米国軍人
B 多くのゴロツキ米国軍人
〔2〕
@ 一人の敗戦国君主
A 一握りの生き残り官僚
B 多くの生き残り軍人
C 無数のその日暮らしの庶民たち
多大な影響を齎したのは勿論〔1〕の人々だ。戦犯を裁き情報を検閲し、米軍が末永く支配するための体制を作り必要な資金を投入した。〔1〕Aの人々は特に憲法作成と文化保全に力を注ぎ、Bはそれ以外全てを担った。〔2〕は皆そのために利用された。
数年後日本国はサンフランシスコ講和条約によって独立を回復したが、「米軍が末永く支配するための体制」は日米安全保障条約などによって継続。〔1〕の人々の多くは帰国し、体制は〔2〕によって担われることとなった。
ここで〔2〕の取りうる選択肢は二つあった筈だ。一つは「米軍が末永く支配するための体制」から脱却し真の独立を勝ち取る道。もう一つは独立よりも資金的(狭い意味の経済的)繁栄のみを選ぶ道。
国家統治を任された〔2〕@、A、およびBの一部の人々は後者を選んだ。その方が自分達のためになると考えたからだろう。その下で、Bの大半の男たちは復興のために挺身し、Cの人々はそれを支えた。冷戦の時代を経て、確かに日本は資金的に復興した。しかし独立国となる道は閉ざされたまま、文化的繁栄は細々としたものに留まった。平成の今、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』にあるように、日本国は依然として米軍と官僚とに国家統治能力を奪われている。
「こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終るだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである」とは正にこのことである。
「私の中の二十五年」で平岡は、この二十五年間自分は思想的節操を保ったとしながらも、
(引用開始)
それよりも気にかかるのは、私が果して「約束」を果して来たか、ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果すわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果していないという思いに日夜責められるのである。その約束を果すためなら文学なんかどうでいい、という考えが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たことは、私の久しい心の傷になっている。
(引用終了)
<同書 327-328ページ>
と書いている。
平岡が生まれたのは1925年(大正十四年)。『写真集三島由紀夫’25~’70』三島瑤子・藤田三男編(新潮文庫)収録の「三島由紀夫の軌跡」(山口基作成)によると、1941年(昭和十六年)中篇『花ざかりの森』を雑誌「文芸文化」に発表。この時からペンネーム三島由紀夫を用いる。1944年(昭和19年)郷里(兵庫県)にて徴兵検査を受け第二乙種に合格。1945年(昭和20年)2月郷里にて赤紙応召の入隊検査で軍医の誤診により即日帰京。その直前に遺言状を書く。8月15日大日本帝国敗戦。10月妹美津子腸チフスにて死去。
平岡のいう「約束」には、戦後二十五年間の言論だけでなく、二十五年前に書いた遺言状、赤紙応召時の即日帰京、亡くなった妹への想い、そういった諸々も含まれていたのだろう。切実さが胸に迫る。
「私の中の二十五年」は次の文章で終っている。今のこの国を的確に予測した内容だ。
(引用開始)
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。
(引用終了)
<同書 329ページ>
ここまで、平岡を死に急かせた「何か」を追いかけて、
「時間論の混同」(「
平岡公威の冒険」)
「私生活上の行き詰まり」(<
平岡公威の冒険 2>)
「熱狂時代の先取り」(<
平岡公威の冒険 4>)
「戦後日本の父性の不在」(<平岡公威の冒険 5>)
と見てきたことになる。それぞれ重要だが、本来はどれも生き延びて解決を図るべき問題だったと思う。精神と肉体という二元論を再考する。文学を次のレベルに持ち上げるために、筆を擱いてどこか遠くへ旅にでも出るべきだったかもしれない。ユングと唯識の合体を理論的に突き詰める。天皇制を修験道や列島独自の山岳信仰・自然崇拝にまで遡って考える。あるいは新規ビジネスを立ち上げる。あるいは政党を立ち上げる。何せ彼はまだ45歳だったのだ(!)。しかし、この四つの「何か」がシンクロナイズ(synchronize)して同時に襲い掛かってくる状況下、彼に残された選択肢は限られていたのだろう。「俺の誠意だけは信じてくれ」という声が天空から聴こえてくるようだ……。
参考:
「
平岡公威の冒険」(『夜間飛行』)
<
平岡公威の冒険 2>(『百花深処』)
<
平岡公威の冒険 3>(『百花深処』)
<
平岡公威の冒険 4>(『百花深処』)