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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <平岡公威の冒険 4>

 平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)は、その晩年に『日本文学小史』という評論を残している。昭和44年(1969年)8月号と昭和45年(1970年)6月号雑誌「群像」に連載形式で発表されたもので、初回は「方法論、古事記と万葉集」、第二回は「懐風藻と古今和歌集」、その後昭和47年(1972年)11月に短い「源氏物語」を加え、講談社から単行本として刊行された。その後、昭和57年(1982年)1月に出た『小説家の休暇』(新潮文庫)に収録された。

 『日本文学小史』は全体として未完の作品だ。しかし、その第一章「方法論」には、死へ傾いていく彼の晩年の思考過程の一端が示されていて興味深い。そのさわりの部分を新潮文庫版から引用しよう。

(引用開始)

 マルクスとフロイトは、西欧の合理主義の二人の鬼子であって、一人は未来へ、一人は過去への、呪術と悪魔祓いを教えた点で、しかもそれを世にも合理的に見える方法で教えた点で、双璧をなすものだが、民俗学を第三の方法としてこれに加えると、われわれは文化意志を否定した文化論の三つの流派を持つことになるのである。

(引用終了)
<『小説の休暇』(新潮文庫)231ページ(フリガナ省略)>

平岡はここで、西洋近代の合理主義を否定し、その代わりに「文化意志」なる聴き慣れない言葉を使って、日本文学の歴史を語ってゆく。

(引用開始)

 文化とは、文化内成員の、ものの考え方、感じ方、生き方、審美観のすべてを、無意識裡にすら支配し、しかも空気や水のようにその文化共同体の必需品になり、ふだんは空気や水の有難味を意識せずにぞんざいに用いているものが、それなしには死なねばならぬという危機の発見に及んで、強く成員の行動を規制し、その行動を様式化するところのものである。
 私の選ぶ文学作品は、このような文化が二次的に生んだ作品であるよりも、一時代の文化を形成する端緒となった意志的な作品群であろう。それこそは私が「文化意志」と名付けるところのものであり、
(一)神人分離の文化意志としての「古事記」
(二)国民的民族詩の文化意志としての「万葉集」
(三)舶来の教養形成の文化意志をあらわす「和漢朗詠集」
(四)文化意志そのものの最高度の純粋形態たる「源氏物語」
(五)古典主義原理形成の文化意志としての「古今和歌集」
(六)文化意志そのもののもっとも爛熟した病める表現「新古今和歌集」
(七)歴史創造の文化意志としての「神皇正統記」
(八)死と追憶による優雅の文化意志としての「謡曲」
(九)禅宗の文化意志の代表としての「五山文学」
(十)近世民衆文学の文化意志である元禄文学(近松・西鶴・芭蕉)
(十一)失われた行動原理の復活の文化意志としての「葉隠」
(十二)集大成と観念的体系のマニヤックな文化意志としての曲亭馬琴
 などが、ほぼ考えられる各時代の文化意志の代表であろう。(中略)
 厳密に言って、一個の文化意志は一個の文学史を持つのである。

(引用終了)
<同書 232−233ページ(フリガナ省略)>

田中美代子氏は新潮文庫版の解説の中で、「厳密に言って、一個の文化意志は一個の文学史を持つのである」とは「一種戦闘的な主張」であり、「一閃の犀利な刃物のように歴史の断面を切り裂き、来るべき時代の危機を警告する」と評価するが、私には、この「文化意志」という言葉は、自意識、美意識といった程度の意味で、創作意欲の源泉ではあろうが、近代合理主義と対峙するような主義主張には思えない。その証拠に、上の(一)より(十二)から「文化意志」という言葉を省いても意味はまったく変わらない。

 ここで重要なのは、なぜ平岡が「文化意志」なる奇妙な言葉を作り出してまで、西洋近代の合理主義を否定しようとしたのか、ということの方である。

 先日私は、ブログ『夜間飛行』のなかで「熱狂の時代」という記事を書いた。詳しくは同項をお読みいただきたいが、簡単に趣旨をいうと、「モノコト・シフト」の時代は、冷たい脳(大脳新皮質)の働きよりも、熱くなりやすい身体(大脳旧皮質と脳幹)の働きを重視するから、それは一面「熱狂の時代」ともなるという話だ。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 脳(大脳新皮質)の働き、身体(大脳旧皮質と脳幹)の働きというのは、ブログ『夜間飛行』で提唱している「複眼主義」の、

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A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

A、a系:デジタル回路思考主体
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)
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B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

B、b系:アナログ回路思考主体
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)
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という対比に基づく。モノコト・シフトの時代、人々はBの考え方により親近感を抱くようになる。

 平岡の死は1970年だから、21世紀までまだ30年あったわけだが、私は『日本文学小史』の西洋近代合理主義の否定を改めて読んで、これはまさに熱狂の時代の先取りではないかと感じた。

 『日本文学小史』第一章「方法論」において、平岡は「私はかって民俗学を愛したが、徐々にこれから遠ざかった」と書いている。しかし、第二章「古事記」において彼は、(民俗学、或はマルクスやフロイトから「遠ざかった」筈なのに)「祖型(アーケタイプ)」という、ユングの心理学用語を使って古事記を分析している。論を組み立てるには対象を分析し、仮説抽出を行なわなければなければならないから最新知識を用いるのは当り前のことなのだが、それではなぜ彼はマルクスやフロイト、民俗学を否定したのだろう。

 本当のところ、平岡が遠ざかりたかったのは、還元主義的な似非科学であって、Aの考え方そのものではなかったと思われる。同じ心理学でもフロイトとユングは違うと考えたのだ。

 彼は、20世紀を席巻した西洋近代の合理主義の限界を感じ、それから離れたかった。しかし1970年代はまだ線形科学の時代で、複雑系やネットワーク理論といった非線形科学が思想として定立されるのはまだ先である。生態学などにおいて、非キリスト教的な考え方が首肯されるのもまだ先の話だ。だから平岡は、西洋近代の合理主義から離れようとする際、(それを齎したものが冷たい大脳新皮質の働きだったからその反動で)熱くなりやすい大脳旧皮質と脳幹の働きを自らの主義主張の拠り所に選んだのだのではなかったか。天皇に対する恋闕の情、拙いクーデタの画策、悲劇的な死への憧れなどなど。ユングはそのために援用された。だから「熱狂の時代」の先取りなのである。

 今から見れば、西洋近代の合理主義の問題は、過剰な財欲と肯定と還元主義的思考であって、Aの考え方そのものではない。Aの考え方、冷静な大脳新皮質思考は、いつの時代にも必要だ。21世紀においてAの側に大切なのは、Bの考え方と対話しながら、柔軟な理論を組み立てることである。

 平岡がユングを研究していたと書くのは、『平凡パンチの三島由紀夫』(新潮社)の著者、椎根和(やまと)氏である。椎根氏は当時雑誌「平凡パンチ」の編集部におり、晩年の平岡の生活をよく知る立場にあった。

(引用開始)

 一九七〇年代の中期になって次々と翻訳されたユングの主著では、三島がドイツ語原著を読んで、“祖型(アーケタイプ)”と自分なりに訳した用語は、“元型=アーキタイプ”と統一された。三島は、その十年以上も前から、ユングを、ひそかに研究していた。阿頼耶識(あらやしき)を主題とした『暁の寺』には、ユングがくりかえし使用した用語、“質料”、あのプラトンが使いだしたという文字が唐突にでてくる。

(引用終了)
<同書 238ページ>

 平岡はユングを研究し、あるいは仏教を勉強し、西洋近代合理主義の先、次の時代のAの考え方を模索していたのだ。しかし、彼は「何か」に急かされるようにして、そのアプローチを途中で投げ出し、Bの方へ一気に傾斜していった。椎根氏は上の引用に続けて次のように書いておられる。重要なところだから少し長いが労を厭わずに引用する。

(引用開始)

 三島の死について、数多くの追悼文、批評評論類が書かれたが、ぼくが、一番素直に読めたのは、澁澤龍彦の文だった。死後、十三年経過した時に、澁澤は「すばる」誌に、「三島由紀夫をめぐる断章」を寄稿した。そのなかに、一九六六年一月二日澁澤邸の新年会に出席した三島の、うれしくも、悲しいような出来事が記述された。「それはともかく、その晩の三島は唯識説にすっかり熱中していて、口をひらけば阿頼耶識阿頼耶識といっていた。阿頼耶識の説明をするのに、やおらテーブルの上にあったお皿を二枚とりあげ、一枚を水平に、もう一枚をその上に垂直に立てて、『要するに阿頼耶識というのはね、時間軸と空間軸とがこんなふうにぶっちがいに交叉している原点ではないかね』というのである。目をまん丸にして、両手にお皿をもって、夢中になって説明しているその様子があんまりおかしかったので、私は思わず、『三島さん、そりゃアラヤシキではなくて、サラヤシキ(皿屋敷)でしょう』
 同席していた高橋睦郎も、横尾忠則も、金子國義も、これでいっせいにげらげら笑い出してしまう始末だった。さすがに三島も苦笑するほかなく、『まいった、まいった。もう申しますまい』」
 この時、三島は仏教の唯識論=阿頼耶識と、ユングの“マンダラ夢59「宇宙時計の幻覚」論”をかさねあわせて説明しようとした。“宇宙時計”を『心理学と錬金術』では、こう解説している。「共通の中心点を持つ垂直円と水平円がある。これは宇宙時計(Weltuhr)である。この宇宙時計は黒い鳥によって支えられている。垂直円の方は、白い縁取りのされた青色の盤で、大きく四文されており、その一つ一つの部分がさらに八分されて、全体としては三十二の部分に分かれている。その上を一本の指針が回転している。水平円の方は四色から成っている。」
 そして、ユングは、こう続けた。こういう宇宙時計の夢を見た者は、「調和の極致の印象」を、分析者に与えた、と。さらに、「この幻覚においては互いに離反し相容れることのない無意識の諸要素が稀に見る幸運によって一つに結合し、同時にこの結合が、無意識の諸『志向(Intention)』を高度に実現している一つの像を生み出したのだと。」
 この夜の興奮ぶりから、三島も、同じ夢を見た可能性がある。ユングは、宇宙時計の夢を、ある天才物理学者から聞かされた。三島は、なぜか自分の見た夢については、なにも書き残していない。三島の内面の、なにか重要なものが、かれらの笑いの中で、はじけ飛んだ。
 一九六八年までの四年間、チューリッヒのユング研究所に留学し、ユングの東洋思想への傾倒に興味を持ち、仏教研究にまでのめりこんでしまった思索家、秋山さと子は、唯識論について、こう解説した。
「仏教では、アラヤ識とは、個人に受けつがれている人間の過去の歴史のあらゆるものを包含した無尽蔵の倉庫のようなものです。(…)アラヤ識は刹那(瞬間)ごとに、生まれては消え、消えては生まれながら、ものごとの変化を作りだします。けっきょく唯識というのは、無我であって実体がなく、無常であって、時間的につながらないものを、どうして人間はものが存在し、連続的なものと考えるかということを、なんとかして説明しようとした仏教の空間・時間論ということができましょう。」(『悟りの分析』秋山さと子著、朝日出版社刊一九八〇年)
 三島は、唯識論を語りながら、もう一つのユングの“宇宙時計”の説明はしなかった。その新年会にでていた印度哲学者、松山俊太郎にも、澁澤龍彦にも、“調和の極致”の心境を理解してもらえなかった。(中略)
 もし、澁澤が、“皿屋敷”ジェスチャーを見て、「阿頼耶識とユングの合体ですね……」とフォローしたら、と想像する。
 三島はユングの“調和の極致”から“改心”にいたる心理分析によって、“病い”の完治コースを歩んだかもしれない。しかし、その夜は、自決への最終コースにいたる“病い”の出発点になった。
 愉しくも、説明できない悲哀を押し殺しながら、頭の片隅で、“澁澤は、本当のところを知らない”というちいさな勝利を感じつつ、古風に、律儀に、「もう申しますまい」と、締めくくった。そして二度と、北鎌倉の澁澤邸を訪れなかった。

(引用終了)
<同書 238−241ページ>

いかがだろう、阿頼耶識とユングの合体、平岡はもう少しで、西洋近代合理主義の先にある、新しいAの考え方(の候補の一つ)に手が届くところだったのだ。21世紀到来より30年も早く。しかし、彼は程なくBの考え方の側に安住の地を見出す。

 椎根氏はこの本の中で、平岡は、日本民族の集合的無意識(元型)として天皇家の神話を選び、それに殉ずるかたちで自らの死を選んだのではないか、と推察しておられる。

(引用開始)

 そして三島の自決の理由・理論的根拠として、ユング説に準拠していったのではないか、とぼくは推理する。肉体に生理的本能があるように、心にも心理的本能がある。無意識といってもよい。その人間の個人的無意識に、体験や知識が、まとわりついてコンプレックスをつくりだす。ユングは、その中心あたりに“集語的無意識”あるいは“元型”というものをみる。それは、ある民族の、ある人々の心に、集団的に、ある一定の影響をもたらすことがある。三島は、その“元型”のひとつを天皇家の神話『古事記』にみいだす。
 一九六九年夏、三島は文芸誌「群像」に、ひっそりと、未完の「日本文学小史」を発表した。『古事記』に登場する景行天皇が、わが子殺しを命じたり、弟、ヤマトタケルノミコトが兄を虐殺する天皇家の殺戮劇のなかに、ナチスの五輪映画のタイトルのような、「運命への意志」とか、「文化意志」とかいう、へんなものを、無理にみいだす。
 西方の討伐から帰ってくると、すぐ東方の悪しき奴らを征伐せよ、という天皇の、次から次への苛酷な命令を、忠実に実行してきたヤマトタケルノミコトが、ある時感じた無常感のようなものを、三島は、「この悲傷、この哭泣(こくきふ)」と表現した。
 ワイルドには、“中世”の悲哀を感じたが、三島が選びとったのは“古代(古事記)”の悲哀だった。(中略)
 ユングの“祖型(アーケタイプ)”という字句は、「日本文学小史」に、なじむような、なじまないような、微妙なところにある。三島は、この“小史”で、文学の世界に別れをつげた、と考えられる。

(引用終了)
<同書 242−243ページ>

 平岡は、「何か」に急かされるようにして、素手のまま「集合的無意識」の世界へ踏み込んでいった。ここで私は感慨を覚える。これを「冒険」といわず何と言おう。前人未到の荒野へ歩み去る彼を、Aの考え方の側へ引き留める親しい友はいなかった。

 ところで、椎根和氏とは11月18日に開催された「三島由紀夫Night@東京・銀座」でお会いすることができた。これは<平岡公威の冒険 2>で紹介した『三島由紀夫の来た夏』の著者横山郁代さんからご案内いただいた集いで、第1部「スーパースター・三島由紀夫との思い出」(椎根和×横山郁代)、第2部「三島由紀夫に捧ぐ歌」(横山郁代)という内容だった。「澁澤龍彦(1987年没)はその後も、阿頼耶識とユングの合体に気付くことはなかったと思う」第2部が始まる前の短い休憩時間、椎根氏は私の問いに答えてそう仰った。

参考:

平岡公威の冒険」(『夜間飛行』)
平岡公威の冒険 2>(『百花深処』)
平岡公威の冒険 3>(『百花深処』)
「百花深処」 <平岡公威の冒険 4>(2015年11月21日公開) |目次コメント(0)

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