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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <平岡公威の冒険 3>

 以前<宇宙的郷愁とは何か>の項で、平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)が稲垣足穂について「男性存在の生と死の意味をあばいた作家である」とした文章に対して、

(引用開始)

しかし彼の理解は足穂美学の半面でしかないと思う。足穂の「宇宙的郷愁」は、A感覚ということで、男性性だけではなく両性を包摂した統一的な美なのだ。

(引用開始)

と書いた。

 『一千一秒物語』稲垣足穂著(新潮文庫)の「解説」で国文学者村上実氏は、同書に収められた『A感覚とV感覚』という作品について、(平岡の理解者でもあった)澁澤龍彦が「従来の常識であったセックスの二元論を統一して、エロスの絶対的一元論を確立しようとした、これこそコペルニクス的転回と呼ぶにふさわしい試みなのである」と語ったと記している。

 どうして平岡は、足穂についてあるいはそのA感覚について、男性性の側面からしか評価できなかったのか。なぜ澁澤のように両性の包摂という壮大な試みを見ようとしなかったのか。今回この点について、<平岡公威の冒険 3>として論じてみたい。

 足穂を勝手に「男性存在の生と死の意味をあばいた作家である」と評した平岡は、その死後、足穂から逆に「彼の書くものには郷愁が欠けている。なつかしいものが少しもない。書けば書くだけ作り物になり、こうして特に『金閣寺』以降、彼の作品は荒涼無慙な仇花に成り果ててしまった」(『三島星堕つ』より)と評されてしまった。これは平岡が、足穂とも親しかった澁澤龍彦を相手に「稲垣さんという人はテレ性ですからね。僕がほめればほめるほど僕の悪口をいうんです」(中央公論社「日本の文学」第34巻月報より)と言っていたレベルの話ではない。平岡美学に対する根本的な批判だ。何故こういうことになってしまったのか。それを考えてみたい。

 尚この項の前に、

複眼主義による思考と美意識の分析
出自と志向
バイリンガルとバイセクシャル
クロスジェンダー的表現について

をアップした。本項はそれらを踏まえた内容となっている。併せてお読みいただきたい。

 <複眼主義による思考と美意識の分析>の項で纏めた、複眼主義美学の図式は次のようなものだった。

 日本的な自然偏重の美意識は、
img013.jpg
 西洋的な都市偏重の美意識は、
img014.jpg
である。

 <クロスジェンダー的表現について>の項で述べたように、クロスジェンダー的な表現は、これらの美意識「全て」を同時に刺戟する。

 <宇宙的郷愁とは何か>の項で、

(引用開始)

 1900年(明治38年)生まれの稲垣足穂は、日本の伝統文化の下で育ったと同時に、怒涛のように入ってきた西洋文明の影響を一身に浴びた。その過程で足穂は日本と西洋両方の美意識に目覚めたに違いない。その後足穂は、A感覚という美意識を通して世界を見れば、両方の美学を統一的に表現できることを発見したのではあるまいか。

(引用終了)

と書いたが、1925年(大正14年)生まれの平岡も、足穂と同じように、日本の伝統文化と西洋文明を一身に浴びて育った。彼の『仮面の告白』路線は、自ら勉強したり足穂の作品を読んだりする中で、クロスジェンダー的表現の可能性に気付いたが故のことであったと思われる。

 <バイリンガルとバイセクシャル>の項で書いたように、言語の習得と、反対の性性に対する偏見の無さは、日本及び西洋的な思考・美意識両方のエッセンスを学ぶ上で近道となる。彼はそれを知っていたのだと思う。平岡の奇抜な言動や、美輪明宏に対するオマージュなどはその範疇で理解できる。英語もよく勉強していたという。

 しかしこの路線で、ポジティブな美意識だけを取り出すには、極めて慎重なハンドリングが必要とされる。足穂は、戦後京都に籠もって思索を深め、彫心鏤骨して文章を練った。平岡がA感覚を男性性の側面からしか評価できなかったということは、このことに彼が気付いていなかったからではないだろうか。

 周知のように、平岡の作品や言動には、クロスジェンダー的表現に沿って、上の図にある美意識全て(ネガティビティも含めて)が顔を揃えている。なかでも反重力的美学系(高揚感/野卑/華やかさ/魔的なもの)の表出が多いのが特徴だ。そしてそれらは(美輪明宏の場合と違って)コントロールされずに、次から次へとまるで読者の戸惑いをも計算に入れたように、そのままストレートに表現された。小説や舞台、ハラキリ映画から筋肉を誇示したヌード写真、楯の会などなど。晩年彼は、自分のことを(様々な美意識の)「ごった煮」と称していた。自負の裏返しの表現でもあろうが、本音の部分もあったのだろう。

 私は平岡のそういったところがむしろ好きだ。言動はまるで愛すべきやんちゃ坊主のようだし、多くの作品には緊張感がある。「ごった煮」の中から自分の好きな具材を選べば、シェフの味付けは決して悪くないと思う。しかし彼は表現の洗練に無防備すぎた。敬愛する足穂に「荒涼無慙な仇花」と評されてしまう程に。

 あるいはこうも言えるかもしれない。平岡は、「何か」に急かされるようにして、クロスジェンダー的表現に対する慎重なアプローチを途中で投げ出した。それが何だったのか、項を改めてさらに探ってみたい。

参考:

平岡公威の冒険」(『夜間飛行』)
平岡公威の冒険 2>(『百花深処』)

「百花深処」 <平岡公威の冒険 3>(2015年07月29日公開) |目次コメント(0)

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