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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <複眼主義による思考と美意識の分析>

 <華やかなもの>、<エレガントな女性美>の両項で、複眼主義美学に基づく日本的美意識と西洋的美意識、特にその女性性の特徴について見てきたが、改めて、男性性の場合も含め、一般的な日本と西洋における思考・美意識の全体を整理しておきたい。

 日本人の思考・美意識については、以前<隠者の系譜>の項で纏めたものを下敷きに言葉を補正する。

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日本古来の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動でありながら、自然を友とすることで、高みに飛翔し続ける抽象的思考よりも、場所性を帯び、外来思想の習合に力を発揮する。例としては修験道など。その美意識は反骨的であり、落着いた副交感神経優位の郷愁的美学(寂び)を主とする。交感神経優位の言動は、概ね野卑なものとして退けられる。
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日本古来の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、自然と一体化することで、「見立て」などの連想的具象化能力に優れる。例としては日本舞踊における扇の見立てなど。その美意識は、生命感に溢れた交感神経優位の反重力美学(華やかさ)を主とする。副交感神経優位の強い感情は、女々しさとしてあまり好まれない。
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 これに対応する形で西洋人の思考・美意識を纏めると、

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西洋の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動であり、都市(人工的なモノとコト全般)に偏していて、高みに飛翔し続ける抽象的思考に優れている。例としては神学や哲学など。その美意識は、交感神経優位の反重力美学(高揚感)を主とする。副交感神経優位のノスタルジアは、ともすると軟弱さとして扱われる。
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西洋の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、都市に偏していて、モノやコトの安定化に力を発揮する。例としてはイギリスの女流小説など。その美意識は、静かな副交感神経優位の郷愁的美学(エレガンス)を主とする。交感神経優位の強い情動は、多くの場合魔的なものとして恐れられる。
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となるだろうか。

 人は皆ある比率で男性性と女性性とを持っているから、両方の性性の思考・美意識を有している。今の日本人は、日本古来の思考・美意識と、西洋的なものとの混合型。人によってそのレベルは異なる。何か強いプレシャーを受けると、先祖帰りして古来の思考・美意識に戻ることがある。日本的なるものを理解する西洋人も最近増えてきている。
 
 複眼主義では、そもそも「都市」(人工的なモノやコト全般)は男性性(所有原理・空間原理)、「自然」は女性性(関係原理・時間原理)に偏していると考える。一神教によって育まれた西洋人の思考は、原則的に人間中心の発想で、反自然=「都市」をベースに発展してきた。西洋人の思考は、男女ともに、男性的な合理精神に引き寄せられる。一方、日本人の思考は、原則的に環境中心の発想で、縄文の昔から「自然」との融和を基に展開してきた。だから日本人の思考は、男女とも女性的な感性に引き寄せられるのだ。

 「都市」に偏した西洋人の思考から形成される美意識は、主に、男性的な反重力美学(高揚感)と、その行き過ぎを抑えるよう(カウンターとして)働く女性的な郷愁的美学(エレガンス)、「自然」に偏した日本人の思考から生まれる美意識は、主に、女性的な反重力美学(華やかさ)と、その行き過ぎを抑えるように(カウンターとして)働く男性的な郷愁的美学(寂び)である。

 日本的な自然偏重の美意識は、
img013.jpg
 西洋的な都市偏重の美意識は、
img014.jpg
と纏めることができる。

 言語と思考・美意識とは相互作用的なものであり、それぞれの思考・美意識の違いが言語の特徴を生み、言語の特徴が思考・美意識の違いを助長する。互いの言語を習得すれば違いに対する理解は深まる筈だ。

 以上だが、これらの特徴抽出は、私の知識と経験に基づく仮説であり、どこかに正典があるわけではない。あくまでも私がこれまで「複眼主義」として集成してきた考え方の延長線上にある。また複眼主義における二項対比は、「かならず」というものではなく、「どちらかというと」という曖昧さを許容する。この思考・美意識についても同様に捉えていただきたい。

 これからも様々な視点から、この仮説の整合性を検証していきたい。

 先日の女子サッカーW杯について、この分析法を応用して考えてみよう。西洋発祥のサッカーは都市のゲームだ。必要とされるのは個の力、スピード、頭脳的プレー、チームワークなど。美意識でいえば反重力美学(高揚感)の世界だ。日本はそこへ「和」の力を持ち込んだ。チームという「環境中心」の戦法。サッカー場を築山に見立てて、細かくパスを回しながら全員で点を取りにゆく。華やかな(運動会のような)世界。決勝戦、後手にまわったところで、監督は個の突破力に期待して人を入れ替えたが、勝利には力及ばなかった。「和」は必ずしも勝利だけを目標としない。ゲームの後、アメリカチームが勝利に酔いしれるとき、日本チームは(勿論敗北に項垂れる選手も多かったけれど)総じてすがすがしさを湛えていた。全員が力を出し切るという別の目標を達成したからだろう。新聞も「全員でよくやった」という論調の記事が多い。しかし、サッカーである以上やはり個の力の強化が必要だ。これからは、複眼主義ではないが、どちらかだけというのではなく、明示的に二重(和の力と個の力)の目標を立てて強化を図ってはどうだろうか。

 <@駅のホーム>で述べたコントロールできない「快速電車」の一つ、「新国立競技場」の迷走についても考えてみよう。一番の問題はこういったスポーツ・イベントの後ろで蠢くgreed(行き過ぎた財欲と名声欲)の跋扈だろうがその話は別にしも、どうして、予算大幅オーバー・納期達成困難・鈍亀スタイルへの設計変更・開閉式屋根未達成・維持管理費膨張などといった問題が次々と出てくるのか。サッカー同様オリンピックなどのスポーツ・イベントも都市のゲームだ。だから必要とされるのは理念と決断、スピードと効率の筈である。しかし今回責任部署の人たちはみな古来の日本的思考しかできないようだ。官僚は言われたことをやるだけだからもともと関係原理・時間原理(女性性)志向が強い。彼らはgreedが決めた空気(環境)に呑まれて軌道修正ができない。一方政治家はものごとを決断するためにいるのだが、局面局面(環境)に引き摺られて場当たり的決断しかできない。あの後手に回ったときの女子サッカー・チーム監督のように。かくて、誰も有効な決断ができず、軌道修正もできない「総無責任体制」が出来上がる。解決のためには、greedが決めた空気をまず切断すること。そして決断すること。そういうことが出来る思考の持ち主が現れない限り、競技場は(あの戦艦大和・武蔵のように)奈落の底へ沈むのではないだろうか。
「百花深処」 <複眼主義による思考と美意識の分析>(2015年07月10日公開) |目次コメント(0)

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