先日、東京新聞(5月27日付)夕刊文化欄で、
「3番線快速電車が通過します 理解できない人は下がって」
という句(歌)と出会った。「一首ものがたり」という連載記事で、作者は数年前に遺伝性の副腎白質ジストロフィーで亡くなった中澤系(1970−2009)という詩人である。
私はこの句に衝撃を受けた。以前ブログ『夜間飛行』で日本社会の今について、
(引用開始)
それにしても、今の日本は、世界的潮流としてのモノコト・シフトや、地域特有の兆候(高齢化、人口の減少など)に相応した社会基盤の構築が急務だと思う。社会基盤の不備とgreedとbureaucracyによる自由の抑圧システム。この二つの犠牲者は我々自身である。たとえば連日どこかで繰り返される「人身事故」のアナウンス。私を含めて人はみな遅刻を気にして舌打ちする。我々の同胞の一人が、システムの犠牲になっていまこの近くで命を失った(かもしれない)にも拘らず!本当は、誰にも犠牲者を哀悼する気持ちはあると思う。でも忙しさなどからその気持ちを無意識に抑制してしまうのだ。その小さな隠蔽が、人々の心ここに在らずの状態(認知の歪み)をさらに助長していく。
<「
アッパーグラウンド II」より>
と書いたことがある。この句は、そういう日本社会の実相を、短い言葉で見事に表現しているように思えたのだ。
「3番線快速電車が通過します」というフレーズは、都内の駅ホームで日常的によく聞く。だいたいそのあと「危険ですから、黄色い線の内側までお下がり下さい」などと続くわけだが、この句では、「理解できない人」という台詞が突然出てくる。「理解できない人」が出てくることによって、「快速電車」が一気に、何か暴力的で傍若無人なもの、コントロールできないもの、不安なものに変身する。差別を助長する法律だったり、原発だったり、リニア新幹線、新国立競技場、TPP、憲法改悪だったり。
「3番線快速電車が通過します」というフレーズが駅でよく聞く言葉だけに、後の「理解できない人は下がって」との落差が際立つ。社会批判性が強く打ち出される。「下がってください」でもなく「下がれ」でもなく、「下がろう」でもなく、「下がって」という終わり方が、紋切り型でなく何か切迫した気持ち、と同時に、どこか女性的な優しさを感じさせる。それがこの句の力となっているように思う。
「3番線」ということは、線路が少なくとも3本あるということで、駅が中規模以上であることを表している。しかし「快速電車が通過します」ということで、それが主流地域にないことを同時に示している。この駅の立居地も絶妙だ。もう一度引用するのでじっくりと味わって欲しい。
「3番線快速電車が通過します 理解できない人は下がって」
前半フレーズの声は最近よくあるアナウンスの合成音声のような気がする。後半は上で述べたような時代の実相を感じ取っている作者の内なる呟きか。新聞記事には大きな黒縁の眼鏡を掛けてこちらを見ている作者の写真があった。享年39歳だからまだ若い。ホームに立つ中澤系の姿が見えるようだ。彼(の句)が私の中に浸透していく。
新聞にはまた、今年の4月24日(作家の命日)、『中澤系歌集uta0001.txt(うた・ゼロゼロゼロワン)』(双風舎)が刊行されたとある。入手できれば是非読んでみたい。
さて最後に、『マッチ売りの偽書』中島悦子著(思潮社)から駅に纏わる詩を一つ転載しておこう。
(引用開始)
駅に来る人々は文字が読めます
いいえ、駅に来る人々は第二の文字の読めない人々です
私は、自分で読める乗客です 人に読んでもらわなくても結構です
いいえ、結局あなたがたは 読むことの意味を放棄しているのです
自分で読んだ方が早いのです 決して酔ってはならないのです
(引用終了)
<同書 94ページ>
ホームでこの項を読んでいる人は、くれぐれもクラクラして線路に落ちないように。