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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <宇治十帖>

 今年の春先、京都の宇治へ行ってきた。紫式部の『源氏物語』<宇治十帖>(「橋姫」から「夢浮橋」まで)を読み、その面影が残る場所を歩きたかったからだ。読んだのは『源氏物語』円地文子訳(新潮文庫)。『光る源氏の物語(下)』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)によると、宇治十帖には次のような特徴があるという。

(引用開始)

大野 ここで「橋姫」以降の十巻には、全体としてどういう特徴があるか。いくつか私の考えを述べてみますと、まず登場人物の名前の付け方が違っている。具体的にいうと、「雲隠」のところまでは光の君のお話です。これは、光のある世界の話。ところが、「宇治十帖」の代表的な男二人、これは匂と薫です。「匂う」という言葉は「花が匂う」というように、「色づく」という意味もありますが、「匂いがする」という意味です。「薫」は明らかに「かおり」です。「匂い」とか「かおり」というのは、当時の生活では夜のものなんです。「ひかる」は夜はないんです。
丸谷 なるほど。
大野 薫と匂という名前は、「薫中将」「匂兵部卿」としては、はじめて「匂宮」の巻に見え、「竹河」にも「薫中将」とありますが、「匂う」も「かおる」も夜の世界、闇の世界で感じられるもの、ということが作者のイメージの中にあったんではないか。
 もう一つは、この話が「宇治(ウヂ)」で展開していることです。これは、いろんな人が「憂し(ウシ)」の「憂(う)」と関係があると言っています。「ウヂ」と「ウシ」だけを比較することもできますが、「ウヂ」の「ヂ」は「路(ミチ)」という意味があります。だからこれは「憂路(うぢ)(つまり憂き路)」と考えることができる。作者はそれを連想しながらこの話のバックとしたんじゃないか。宇治は「憂路」なんだというわけですね。
 そういうことで、ここからの物語の世界は、光が死んでしまったあとの光のないくらい世界です。女にとって男との間に幸せはないのだということ。それが正面の主題に据えられてくる。作者は全く新しくここで想を練って展開を考えたと思うんです。

(引用終了)
<同書277−279ページ>

宇治というところは、京都からすると<隠者の系譜>で書いたところの「鄙(ひな)」である。

(引用開始)

丸谷 この宇治に住んでいる古宮は光源氏の弟宮である八宮で、この人はかって東宮廃位の陰謀があったときに東宮候補にされた。それに敗れてからはずっと日蔭の身になっていた。京の邸が火事に遭ってからは宇治に引っ込んで、都から訪れる人も滅多にいません。ただ、冷泉院に伺う宇治山の阿闍梨(あじゃり)はこの八宮のところにも出入りしている。薫はこの僧から八宮が仏法に関心が深いことを知って宇治に通うようになります。

(引用終了)
<同書280−281ページ>

光がないこと、憂路であること、鄙であること、隠者から話が始まることなどからして、この十帖は『源氏物語』の中でもきわめて「寂び」の気配が強い。

 宇治へはJR線を使って行った。駅を降りて通りを川へ向かい、宇治橋を渡る。そこから右に折れ、川沿いの遊歩道(さわらびの道)を通って、宇治神社・宇治上神社へ至る。まだ桜の咲く季節前だったこともあって界隈にそれほど人は多くなかった。八宮の山荘を偲ばせる宇治上神社の拝殿を見、そのあとさわらびの道をさらに進んで宇治市源氏物語ミュージアムへ寄った。そこでは京都六条院の模型、華やかな牛車や十二単、寝殿造の中の装束や調度品などを見学したあと、映像展示室で篠田正浩監督「浮舟」、山崎雅史監督「橋姫」という人形劇(映画)を観た。

 宇治十帖は、やはり浮舟という女性の造形が興味深い。詳細は本文をお読みいただきたいが、参考までに各帖の題名を載せておこう(数字は『源氏物語』全体としての通し番号)。

45 橋 姫
46 椎 本
47 総 角
48 早 蕨
49 宿 木
50 東 屋
51 浮 舟
52 蜻 蛉
53 手 習
54 夢浮橋

浮舟は「宿木」の帖から登場する。光源氏の異母弟である八宮の娘でありながら認知されず東国で育ったという設定、匂宮と薫二人に惹かれ追い詰められるようにして死を選ぶ行為、宇治川の畔で横川の僧都に発見され小野の庵に移されたあと結局出家するという結末、まさに「女にとって男との幸せはない」という主題そのものだが、ただ暗いだけではなく、浮舟には他の女性像にはない強い意志が感じられる。

 紫式部はなぜこのような女性を造形したのだろうか。『光る源氏の物語(下)』の中で、大野晋は『紫式部日記』と併せ読みながらつぎのような推理を働かせる。

(引用開始)

大野 『紫式部日記』を読んでみると、このとき紫式部は、旦那に死なれた後、関係を持った道長から突き放されるという事態にあったんですね。日記を見ると、その突き放された状態にあって、日記の後半部分の既述はずっと暗黒で、不機嫌がずうっと続いています。そのなかで「私は見棄てられた人間などと自分で自分を扱わないことにしよう」と叫んでいる。彼女は「見棄てられていた」のですね。そしてこの頃、彼女は『源氏物語』の後半を書いているんです。
 考えてみると、いわば彼女は追いつめられた状態にあったんですね。道長と会うようになって幸福を感じていた紫式部。それは『紫式部日記』の前半からありありと読み取れるんですね。ところが中途で突き放されて、事態は暗転してしまった。その追い詰められた状況のなかからいかにして生きる道を発見するか。『紫式部日記』の中では、私は学問をした、学問のできる女だと叫ぶだけで、最後に至ってもまだその脱出の糸口は何も示されずに終っています。しかし、「紫式部日記」を書いた後、長い苦しみの末に彼女が到達した地点は、やはり道長との関係はあるべからぬ間違いだった、けしからぬことであった。自分は死んだ旦那に対する愛情のなかで生きるべきで、道長との関係を幸いだったと思ったのは間違いだったのだ、と考えつめることによって、彼女はその追い込まれた状況から抜け出たんじゃないか。そう思って読むと「手習」で、浮舟は匂宮とのことをなんで幸いだと思ったのだろう、あれは間違いだったんだ、もう薫に合す顔がないといっています。これは『紫式部日記』と正確に照応してきます。こうした照応があることに気付いて、ぼくはようやくのことで「宇治十帖」は紫式部が書いたらしいなと思うに至ったんです。偶然の類似にしては、合いすぎていますから。これは、私一個の読みですけどね。

(引用終了)
<同書 483−484ページ>

紫式部の動機はともかくとして、浮舟が女性でありながら強い意志を持って最後出家を選ぶという設定は、<隠者の系譜>で述べた反骨的な美意識に基づくように思える。

 晩年の紫式部は、性性を越えて寂びの美学を追及したのではないだろうか。『光る源氏の物語(下)』では否定しているが、別人、しかも男性の隠者が書いたという意見もあるらしい。フィクションでありながら、宇治十帖は、日本の郷愁的美学の原型(アーキタイプ)として、それ以降の隠者たちに強い影響を与えたに違いない。『方丈記』の作者鴨長明が暮らした日野の外山、『徒然草』の吉田兼好が住んだ小野の里、一休宗純の酬恩庵があった薪村、いづれも宇治の地からそう遠くないのは偶然ではあるまい。

 源氏物語ミュージアムを後にすると、ふたたび宇治川へ戻った。宇治橋より上流のこのあたりは多少川幅が狭くその分流れが速い。眼前の朝霧橋を渡る。中の島を経由し、夕霧が相続した別荘を髣髴とさせる平等院の脇に出た。宇治の散策は愉しかった。鳳凰堂の改修が済み混雑する平等院はまた次回にして、私は再び宇治橋を渡り、こんどはJRではなく京阪電鉄を使って京都駅へ帰った。
「百花深処」 <宇治十帖>(2015年05月20日公開) |目次コメント(0)

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