今、東京藝術大学大学美術館において、ボストン美術館と東京藝術大学のコレクションを集めた「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」という美術展が開催されている(5月17日まで)。そこに狩野芳崖の「悲母観音図」が出ていると新聞にあったので、先週さっそく上野まで行ってきた。
この画は、「晩年の芳崖がフェノロサとともに挑んできた日本画革新運動の終結点であると同時に、次世代に受け継がれた近代日本画の出発点として位置づけることができる」(同美術展図録)作品で、制作は1888年(明治21年)、東京藝術大学所蔵(重要文化財)とある。図録からさらに解説文を引用しよう。
(引用開始)
画全体が目映いばかりの金で覆われるが、そこは金雲たなびく天上であり、仏画のような無機的な背景ではない。現実の空に実際の観音と赤子とが浮遊しているかのようなリアリティこそがこの作品の見所であり、そのリアリティは綿密で繊細な細部の描写によって支えられている。芳崖はフェノロサとの研究のすえに独自の境地を開拓し、東京美術学校開校の直前に、この作品を絶筆として没した。伝統的な画法に西洋的な画法や思想を重ねた本作は、その後の近代日本画の礎ともいうべき存在となる。
(引用終了)
<同美術展図録 100ページより>
画は絹本着色一面で、サイズは195.8x86.1cmとかなり大きい。
ネットで見つけたEpitome of Artistsさんの、絵画紹介サイト(
悲母観音図)へのリンクを貼っておこう。
近くで観音の顔を見ると、母性的でありながら男性的でもある。少し離れて見ると、宙に浮遊するその姿は反重力的だが同時に郷愁的でもある。この画は正に、<
宇宙的郷愁とは何か>の項で論じた、
@「反重力美学」
A「郷愁的美学」
B「男性性」
C「女性性」
全てを兼ね備えた作品といえるだろう。
<宇宙的郷愁とは何か>の項で紹介した『一千一秒物語』稲垣足穂著(新潮文庫)の中に、「弥勒」という著者の半自叙伝的小説が収められている。そのなかで足穂は、自分(江美留)が弥勒菩薩になる夢を見る。
(引用開始)
或る朝、部屋の戸の隙間から差込まれていた『コギト』という同人雑誌の表紙に、見覚えのある仏像を見た。(中略)ここにおいて江美留は悟った。波羅門の子、その名は阿逸多、今から五十億七千万年の後、竜華樹下において成道して、先の釈迦牟尼仏の説法に漏れた衆生を済度すべき使命に託された者は、まさにこの自分でなければならないと。
(引用終了)
<同書 261−262ページ。フリガナ省略>
弥勒菩薩は女性的に描かれることが多い。政治思想家の副島隆彦氏はその著書『隠された歴史』(PHP研究所)のなかで、観音・阿弥陀・弥勒の像は女性であると述べている(同書27ページ)。日本と西洋の美意識の相反を、性性を越えることによって統合しようとする、クロスジェンダー的な造形を通して、日本的な美意識と西洋的な美意識とを統一的に表現しようとする点で、足穂と芳崖の意識は近いところにあるのではないだろうか。
東京藝術大学といえば、同大学の教授だった生命形態学三木成夫は、その著書『生命とリズム』(河出文庫)のなかで、この悲母観音図、特に赤子が浮遊する姿について、
(引用開始)
羊膜の玉に包まれ、太古の海水に浮び上がるその情景は「人間生誕――むすび」の刹那を表した類まれなる作品と思われる。
(引用開始)
<同書 34ページ>
と書いている。
三木は個体発生と系統発生の密接な関係性と、身体の二重性(体系系と内臓系)の成立過程を突き詰めた学者だが、そのセオリーの根幹に、人体構造はもともと一本の管(くだ)から発達したという知見がある。口腔と肛門を両端とした管が人間の原初構造であってみれば、A感覚はそのもっとも由緒正しい原初的感覚ということになる。
さてこの悲母観音図、最近読んだもう一つ別の本にも掲載されていた。<
「いき」の研究>、<
「風流」の研究>で論じた九鬼周造つながりで『九鬼と天心』北康利著(PHP研究所)を読んでいたら、この「悲母観音図」のモデルについて、九鬼周造の母波津子ではないかという伝説があると書いてあったのだ。この本のタイトルにある「九鬼」は、九鬼周造の父親九鬼隆一のことで、隆一の妻波津子は、この本のタイトルにあるもう一人「天心」、すなわち岡倉天心と一緒にアメリカから帰国した。
(引用開始)
そんな彼女に関してひとつの伝説がある。
それは、「狩野芳崖畢生の名作『悲母観音図』のモデルこそ、誰あろう波津子である」というものだ。実際、米国から帰国してすぐの天心が、芳崖に波津子を引きあわせたという事実もあるようだ。
『悲母観音図』は、芳崖が燃え尽きんとする彼の生命力のすべてを注ぎ込んだ絶筆であり、その神々しい姿が圧倒的な迫力となって見る者の心を揺さぶる名作中の名作である。ここで言う「悲母」とは「慈悲深い母」を意味している。
フェノロサの、
「日本には聖母子像がありませんね。日本画でそれを描いてみませんか?」
という言葉がきっかけになったと言われている。実際この図には、今から生まれようとしているへその緒のついた赤ん坊が観音の左下に配されている。
そしてこの『悲母観音図』には制作年のわかっている下絵が三枚残されているが、芳崖が波津子と会ったと思われる頃から急に下絵の中の観音の顔が男性的なものから女性的なものへと変貌を遂げているのだ。
(引用終了)
<同書 323−324ページ。フリガナ省略>
波津子の悲劇的な生涯については同書に詳しいが、芳崖が彼女をモデルにしてこれを描いたとすると画の趣きや奥行きが増してみえる。
ことの真偽はさておき、天心といえば東京藝術大学美術学部の前身である東京美術学校の校長や、ボストン美術館の中国・日本美術部長としても知られている。「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」でも、下村観山の「天心岡倉先生(草稿)」や平櫛田中の「鶴氅試作」(木像)などが展示されていた。
話は東京藝術大学の美術館から始まって、稲垣足穂に転じ、そこから三木生命形態学へ飛び、九鬼周造を通って、最後にまた東京藝術大学へ戻ってきた。天心は『茶の本』の著者でもあるから、話はさらに千利休が茶室に持ち込んだ一休の<
反転同居の悟り>へと繋がってゆく。
この美術展には、芳崖の悲母観音図と並んで、天心の甥にあたる岡倉秋水の「悲母観音」(絹本墨画着彩、ボストン美術館所蔵)もある。これは芳崖の絶筆を丁寧に模写したもので、2002年にボストン美術館の収蔵品になるまで知られておらず、今回が日本初公開だという。橋本雅邦や横山大観、菱田春草などの作品もあるから、皆さんも上野へ出かけてみてはいかがだろう。尚、パンフレットには東京藝術大学大学美術館のあと、今年6月6日から8月30日まで名古屋ボストン美術館へ巡回するとあった。