過日『隠された神々』吉野裕子著(河出文庫)という本を読んでいたら、日本の古代信仰は「母なる自然(母胎)を中心とした同心円的世界観」を持っているという指適があった。
(引用開始)
日本の古代信仰における世界像は、真正の母の母胎を中心として、それに同一平面上に同心円を描いてひろがる擬似母胎、家・村・郡・国を拡大してゆく相においてとらえられていた、ということは仮説として既述した通りである。
(引用終了)
<同書 66ページ>
以前<
迷宮と螺旋>の項で、泉鏡花の描く女性的な迷宮を「求心的な回転運動」と書いたけれど、それは古代信仰の中心にある「母なる自然(母胎)」への回帰運動なのだろう。それは列島の気候と風土を背景に一万年以上続いた縄文時代からの記憶といえる。
日本の女性性が「母なる自然(母胎)」への回帰を志向しているとすれば、日本の男性性はそこからの飛翔を目指す。<迷宮と螺旋>で論じたように、それは「遠心的な螺旋運動」なのだが、日本の男性性はけっして抽象的な高みへと飛翔し続けるのではなく、「母なる自然(母胎)」に強く牽引されて、固有の場所・環境における相転移に留まる。『夜間飛行』「
回転と中心軸のトポロジー」の項ではそれを「鳴門の渦潮のように、同時多発的に複数の場所で起る」と書いた。
この日本の男性性を歴史を遡って追ってゆくと、七世紀後半に起り平安時代から鎌倉時代にかけて盛行した、「修験道」という興味深い宗教に行き着くようだ。
歴史作家の関裕二氏は、その著書『修験道がつくった日本の闇』(ポプラ社)のなかで、
(引用開始)
日本人の血には、縄文人の血のほぼ倍の渡来人の血が入っていた。しかし、血の流入は段階的であり、精神の根っこには縄文的な発想が沈殿していたのだ。そして、何かの拍子に稲作民族であるはずの日本人の心の中で、狩猟民族的な感性が頭をもたげるのである。
そして修験道は、日本人の「深層」に繋がっていたのではあるまいか。神道こそ日本人の宗教観だとわれわれは信じていたが、実際には、修験道こそが、太古の思想を受け継いでいたのではなかったか。
(引用終了)
<同書 82ページ>
と書く。政治思想家の副島隆彦氏も『なぜ女と経営者は占いが好きか』(幻冬舎新書)の中で、
(引用開始)
修験道だけは、日本の古来の「行い」であって、日本人が仏教や神道になじむ(騙される)以前からあった日本人の魂の古里である。修験道(山の民たちの習俗)は決して中国伝来ではなくて日本にもともとあったものだ。だから私は、この修験道(しかし、表面上はほとんどは仏教に取り込まれている)の海、山、川を信仰する態度を、自分の行き方の基本にする、と決めた。
(引用終了)
<同書 119ページ。フリガナ省略>
と述べる。修験道は山籠もりと修行を旨とする。
(引用開始)
修験道とは何か。修験とは、霊験があらかたになる(顕示すること、外に表れる)ように、山岳修行をする行者が、己の験、すなわち超能力を高める努力のことである。
(引用終了)
<同書 181ページ。フリガナ省略>
修行の場所は、奈良の聖地・葛城山を筆頭に、吉野の大峰山、大阪の生駒山、和歌山の熊野の那智山、京都の愛宕山、滋賀の伊吹山、東北の出羽三山、青森の岩木山、信州の浅間山、戸隠山、富山の立山、白山、山陰の大山、関東では霊峰富士、秩父の三峰山、群馬の赤城山などなど、日本全国にそれこそ山のようにある。修験道は、「母なる自然(母胎)」に偏した環境のなかで育まれた日本の男性性の「遠心的な螺旋運動」のよき受け皿として、列島各地で盛行することとなったのではないだろうか。
関裕二氏は、修験道は反骨の宗教だという。七世紀後半といえば、中央では律令制度が整えられていった時期である。律令制度は民衆がそれぞれの土地に定着することを前提にしていたから、山に籠もる修験者たちはその外側にいた人々であり、彼らは、時の政治に不満を持つ民衆の支持を集めるようになっていった。
以前<
「いき」の研究>の項で、風狂の禅師一休宗純に発する、権力に対する小乗的なうっちゃりであるところの<
反転同居の悟り>は、歴史を下り、諦めと意気地が同居する江戸の「いき」に辿り着いたと書いたけれど、反対に、反転同居の悟りのルーツを求めて歴史を遡ってゆくと、この反骨としての修験道にまで行き着くと思われる。『修験道がつくった日本の闇』から再度引用しよう。
(引用開始)
密教によって発達した修験道とは、藤原氏の勃興によって抹殺された日本民族の真の信仰を継承したものなのである。斎部広成が憤慨したように、中臣神道に対する人々の不満が次第に高まると、神道離れはいよいよ進み、その隙をついて、「鬼」どもが山のアジトを飛び出し、民衆の圧倒的な支持を得ていき、さらに修験道を密教が体系化した。
こうして、修験道が市民権を得ると、朝廷もこれを利用せざるをえなくなった。それもそのはず、修験道こそが、日本人の原始以来の基層文化をかたくなに守り続けた宗教観だったからである。平安貴族層が没落する鎌倉時代、新たな仏教が修験道からわき出すのも、単なる偶然ではなかったのである。
(引用終了)
<同書 205−206ページ>
ここにもあるように、修験道は仏教などと習合しながら生き延びていった。日本人は、抽象的な外来思想や宗教をそのまま受入れるのではなく、具象的な環境や場所に落とし込み、土着の信仰に習合させるのが得意だ。
この項の初めに引用した『隠された神々』の中で吉野は、日本文化の特色は、新たにやって来た思想や宗教がこれまであったものを全てのみ尽くすのではなく、在来のものが新たにやって来たものを受け入れ「習合」するところにあると指適する。そして、日本人には「見立て」という連想的具象化能力があり、それが日本人を日本人たらしめている「習合」の力の背景にあるという。『隠された神々』から再度引用しよう。
(引用開始)
古代日本人は抽象的な思惟を苦手とし、物事を理解しようとするとき、それを何かに擬え(なぞ)らえ、それからの連想によって捉(とら)えようとした人々だったと思う。つまり「擬(もど)き好き」や「連想好き」であって、それが日本人の原初的心情なのである。
(引用終了)
<同書 13ページ>
「擬(もど)き好き」や「連想好き」は、複眼主義でいうところの女性性特有の「関係原理」に基づく能力であろうが、縄文時代から「母なる自然(母胎)」に偏した環境のなかで育まれた日本の男性性も、(高みに飛翔し続ける抽象的思考よりも)具象化能力を磨いたのだと思われる。
日本では、古代の自然信仰(東西軸)は星の信仰である中国の陰陽五行思想(南北軸)と習合し神道となった(『隠された神々』)。仏教は神道と習合し、修験道はその仏教と習合する。さらに修験道は平安中期に至り陰陽道とも習合する(『修験道がつくった日本の闇』)。この「習合」力はすごい。日本人は今でも教会で結婚式を挙げ、ご利益を求めて七福神を巡り、正月には神社にお参りし、葬式では仏教のお坊さんにお経を読んでもらう。これも習合力の賜物だろうが、日本の男性性のエッセンスを探るためには、修験道という反骨孤高の宗教に目を向ける必要がありそうだ。