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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <宇宙的郷愁とは何か>

 先日CDでドビュッシーの「月の光」を聴きながらその演奏者たる青柳いづみこさんの『ドビュッシーとの散歩』(中央公論新社)を読んでいたら、

(引用開始)

 ドビュッシーのピアノ曲でいちばん有名なものといったら、『ベルガマスク組曲』の第三曲「月の光」ではないだろうか。単独でもよく演奏される。
 甘美ではあるが、決して甘ったるい内容ではない。ゆるやかにらせんを描きながらどこまでも下降していくメロディには、はかなげな、滅びの美学のようなものが漂っている。

(引用終了)
 
とあった。たしかにセブンスの和音が11回も連続下降するその旋律は、「はかなげな、滅びの美学」と呼ぶに相応しい気がする。この言葉から、私は『一千一秒物語』稲垣足穂著(新潮文庫)に収められた「美のはかなさ」という短編のことを想い起こした。

 稲垣足穂は、三島由紀夫や澁澤龍彦が高く評価した大正末から昭和にかけての作家(1900−1977)だ。オスカー・ベッカーについて書かれたこの短編に、「宇宙的郷愁」という成句が出てくる。今回このフレーズについて、<「いき」の研究>や<「風流」の研究>などでみた複眼主義的美学に基づいて考えてみたい。

 ドビュッシーのピアノ曲でも聴きながらお読みいただければ嬉しい。青柳いづみこさんのCD『ロマンティック・ドビュッシー』(カメラータ)には、「月の光」以外、調べの美しい「アラベスク第一番」や「夜想曲」なども入っている。この項には打って付けかもしれない。

 本題の前に、複眼主義による美学を整理しておこう。

@「反重力美学」:交感神経優位の美的感覚
A「郷愁的美学」:副交感神経優位の美的感覚

B「男性性」:理知的な美意識
C「女性性」:情感的な美意識
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●「日本的美学」:全体に「自然」に偏していて、
@+C「女性性の反重力美学」(華やかさ)
A+B「男性性の郷愁的美学」(寂びしさ)
に美しさを強く見出す。
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●「西洋的美学」:全体に「都市」的であり、
@+B「男性性の反重力美学」(高揚感)
A+C「女性性の郷愁的美学」(エレガンス)
に美しさを強く見出す。
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 さて、この「宇宙的郷愁」という言葉だが、それは直接的には今でいう既視感(デジャヴ)のことを指している。『一千一秒物語』から引用しよう。

(引用開始)

 自分の場合は、「以前ここに居たことがある」あるいは「いつだったか此処で、まさしくこれらの人々と共に、ちょうどこれと同じことを語った」という突然感情は、同時に、「ひょっとしてこれから先に経験すること」のようだし、「それは自分ではなく、他人の上に起っていることではないか」などと思われたりする。
 時折に自分をとらえて、淡い焦慮の渦の中へ捲き込む相手をもって、かつて僕は一種の「永遠癖」だと考えた。それでは不十分なので「宇宙的郷愁」に取りかえたが、この都会的、世紀末的、同時に未来的な情緒は、つとに自動車のエグゾーストの匂い、雨の降る街頭に嗅ぎつけたあのガソリンの憂愁の中に、兆していた。それからまた、青き夜の映画館の椅子で聴いた音楽の、半音下がる箇所にも、それは確かに在った。

(引用終了)
<同書 300ページより。フリガナ省略>

この短編の中で「宇宙的郷愁」は「六月の夜の都会の空」とも言い換えられている。短編のタイトル「美のはかなさ」を象徴するフレーズと考えて差し支えないだろう。

 複眼主義的美学に沿って考えると、「宇宙的」とは、@「反重力美学」:交感神経優位の美的感覚であり、「郷愁」は、A「郷愁的美学」:副交感神経優位の美的感覚を示す。従って「宇宙的郷愁」とはこの両方の美的感覚を同時に言い表したフレーズということになる。自律神経(交感神経と副交感神経)は相補的であり交互に優位になるから、交感神経の高揚感と副交感神経の安らぎも交互に人に訪れる。そのせいだろうか、この「宇宙的郷愁」という言葉は、振り子のような動的な振幅を感じさせる。

 一方、この短編は(稲垣足穂の作品の多くがそうであるように)都会的な美意識、西洋的な美学に彩られている。「宇宙的郷愁」もこの作品の中でまず都会的な美意識として捉えられている。と同時にそれは、吉田兼好の「又いかなるをりぞ、ただいま人の云ふ事も、目に見ゆる物もわが心のうちも、かかる事のいつぞや有りしがとおぼえて、いつともおもひ出でねども、まさしく有りし心ちのするは我ばかりかく思ふにや」という『徒然草』第七十一段が引用してあることからも伺えるように、日本的美学の「風流」(華やかさと寂びしさ)とも低通する感覚を含んでいる。そう感じられるのは一体何故なのだろうか。

 『一千一秒物語』には「A感覚とV感覚」という評論も収められている。この中で足穂は、A感覚、すなわちV感覚(女性性)でもP感覚(男性性)でもない統合的なエロス感覚、について語っている。複眼主義的にみれば、それは男性性にも女性性にも偏らない美学ということになる。

 このA感覚を補助線として「宇宙的郷愁」をみると、それはまず、

@「反重力美学」:交感神経優位の美的感覚
A「郷愁的美学」:副交感神経優位の美的感覚

の両方を含んだ動的な振幅であり、さらにA感覚ということで、

B「男性性」:理知的な美意識
C「女性性」:情感的な美意識

の両方を包含した美学であることがわかる。クロスジェンダー的な美意識、@からCまで全てを含み、「日本的美学」と「西洋的美学」の両方に跨った「宇宙的郷愁」! どうしてこのような美意識の発掘が稲垣足穂によって可能だったのだろうか。

 澁澤龍彦はその著書『偏愛的作家論』(河出文庫)のなかで、足穂の『少年愛の美学』について次のように書いている。

(引用開始)

 たとえば、日本の中世の美学のもっとも純化された形式である、能の世界の抽象性は、稲垣足穂氏の一見モダーンな世界と、どこか底の部分で通じ合っているように私には思える。いずれも幽玄にして、かつ艶美な世界である。
「A感覚は往時では、(V感覚の小倉百人一首的サークルに対して)弓矢の道、能楽、茶の湯……とスペクトルの虹のように相連らなっている円環を展開した。今日、A感覚は、色情的対象としてはもはや昔日のようではない。けれどもなお、V感覚の薔薇香的雰囲気(詩、音楽、風景等々)を越えて、こちらは、映写機だの、クラリネットだの、スポーツだのに結びつく傾向を保持している。A感覚そのものが、玩具的なもの、工作的なもの、遊戯的なもの(ヒューマン・スポート)の大本であることをかえりみれば、当り前の話である」と作家自身が語っている通りだ。

(引用終了)
<同書 132ページ>

 1900年(明治38年)生まれの稲垣足穂は、日本の伝統文化の下で育ったと同時に、怒涛のように入ってきた西洋文明の影響を一身に浴びた。その過程で足穂は日本と西洋両方の美意識に目覚めたに違いない。その後足穂は、A感覚という美意識を通して世界を見れば、両方の美学を統一的に表現できることを発見したのではあるまいか。

 いかがだろう、このロジックは複眼主義を持ってしなくては解明できないのではないだろうか。九鬼周造の「いき」や「風流」だけでは、澁澤のいう能とモダーンの低通、足穂美学の世界性までは説明できないはずだ。

 三島由紀夫はその著書『作家論』(中央公論)のなかで、

(引用開始)

 足穂はその孤立によって文学的栄光に包まれた作家であり、分断を俗世間と同一視する資格を確実に持っている作家である。足穂的宇宙に匹敵する思想を持った現在の小説家は、おそらく埴谷雄高氏独りを除いて、他には誰も居ないのである。それは壮大な島宇宙のように宇宙空間の彼方に泛んでおり、われわれの住んでいる太陽系は、それに比べれば裏店の棟割長屋にすぎない。もちろん棟割長屋の軒下にも、朝顔は咲くが……。(中略)
 足穂は真に男性の秘密を売った最初の文学者だと私には感じられる。足穂があからさまにしかし高雅に語りだす前には、われわれ男性は、男性とはなんぞやということを知らなかったのである。直感的には知っていても、ついに口に出すことなく次々と死んでゆき、男性存在の生と死の意味は、人間最奥の秘密として大切に保たれていたのである。それを足穂はあばいたのだった。
 思えば、足穂が男性におけるスパルタ乃至「葉隠」への先天的憧憬と、「宇宙的郷愁」とを同一次元で語ってしまったとき、そこですでに凡ては語り尽くされ、文化と芸術の問題は究め尽されてしまったのかもしれない。この世界の構造は明らかにされ、ふいに透明な機構があらわになり、歴史は遠くまで見透かされ、逆に人間の営為は限定されてしまった。

(引用終了)
<同書 79−80ページより>

と書く。しかし彼の理解は足穂美学の半面でしかないと思う。足穂の「宇宙的郷愁」は、A感覚ということで、男性性だけではなく両性を包摂した統一的な美なのだ。

 両性を包摂し交感神経全般に亘った美的感覚。しかしそれが故に、足穂の作品は危ういバランスのもとに成り立っている筈だ。いくらかでも弛緩すれば、全てを逸する事態ともなり得る。「宇宙的郷愁」→「都会的軽み」→「作り物の脆弱さ」といったように。複眼主義美学は、日本的美学、西洋的美学それぞれ、美の対偶に「野卑」や「軟弱」、「バイオレンス(violence)」や「ウィークネス(weakness)」といった醜(みにく)さがあることを教える。そのため彼は戦後京都に籠もって思索を深め、彫心鏤骨して文章を練ったのだろう。なにせ「宇宙的郷愁」と書いた短編のタイトルは「美のはかなさ」なのである。はかない美、フラジャイルな美、しかし世界性を持つ美、それこそ足穂がA感覚を通して見つけた貴重な宝石に違いない。私は1970年発刊の大著『稲垣足穂作品集』(新潮社)を持っているがまだ全てを読んだ訳ではない。時間をかけてゆっくりと目を通したい。

 まだあなたのCDは演奏を続けているだろうか。1862年生まれのドビュッシーは、足穂とは逆に、西洋文明の下で育ち、後日浮世絵などの日本文化の洗礼を受けた。ピアノ曲「月の光」が「はかなげな、滅びの美学」として日本人の心を打つのは、ヴェルレーヌの詩に着想を得たといわれるこの小品が、特に長調から短調へ変るあたり、足穂のA感覚と響き合う、どこか中性的な陰翳を感じさせるからではないだろうか。CD全体はエレガントなの調べなのだが。

 彼の交響詩と中村明一氏の尺八演奏に寄せて、西洋的美学と日本的美学の彼此を綴った『夜間飛行』「海と心月」の項も併せてお読みいただけると嬉しい。
「百花深処」 <宇宙的郷愁とは何か>(2015年03月21日公開) |目次コメント(0)

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