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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <平岡公威の冒険 2>

 今から5年前、2010年の11月に『三島由紀夫の来た夏』横山郁代著(扶桑社)という本が出た。これは伊豆・下田にある日新堂菓子店の女主横山郁代さんが、毎夏当地に滞在した平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)の思い出を綴ったもので、平岡は日新堂のマドレーヌを気に入ってよく店まで買いに訪れたという。

 彼はここで下田(赤根島と城山公園)を舞台にした短編小説『月澹荘綺譚』など、多くの原稿を書いた。私は5年前この『三島由紀夫の来た夏』を読み、一度下田の平岡ゆかりの場所を訪ねてみたいと思っていたが、先月ようやくそれが実現した。日新堂の横山郁代さんともお目にかかることが出来た。横山さんとは同い年であることもわかり話が弾んだ。日新堂が実家だった横山郁代さんは(私同様)当時十代で、友達と平岡の後をつけたり幾度か言葉を交わしたりした。彼は家族で下田へ来ており、東京では見せない素顔を見せていたという。

 昭和40年代当時、私は三島由紀夫の熱心な読者だった。そのことなどについて以前ブログ記事「平岡公威の冒険」を書いたが、今回下田での体験を基に、その続編を綴りたいと思う。

 今回私が訪れた場所は、下田市中にある日新堂菓子店、その二階のレストラン・ポルトカーロ、下田東急ホテル(宿泊先)、和歌の浦遊歩道(『月澹荘綺譚』舞台)、須崎(九十浜海水浴場)などである。初日、日新堂菓子店で横山さんとお会いし、翌日は(横山さんご夫婦が経営する)レストラン・ポルトカーロで昼食を取りながらさらに彼女とお話した。

 平岡はここ下田では、二人の子供の父親として、夫として、プライベートな平岡公威としての振舞いが多かったという。横山さんはそういう彼とじかに言葉を交わした中の一人だ。その貴重な思い出が、愛情溢れる素敵なご本に結実したわけだが、一方で平岡は、接する人の多くに大盤振る舞いで食事をおごったり、お土産に渡したり、流行作家としての体面を保つようにしていたという。ホテルの部屋も家族の部屋、執筆の部屋、客用の部屋と三室キープしてあったらしい。店を訪れた優しい平岡公威と、煌びやかな作家・三島由紀夫とのギャップに戸惑うことがあったと横山さんはいう。

 『三島由紀夫の来た夏』からおよそ一年後の2011年12月、『ヒタメン』岩下尚史著(雄山閣)という本が出版された。この本は、サブタイトルに「三島由紀夫が女に逢う時…」とあるように、平岡の若き日の恋人と、生涯の親友だった女性、その二人による証言である。ヒタメン(直面)とは、能で面を用いず素顔のままで演ずることを指す。

 本人不在の一方的な証言だから気をつけなければならないが、この本によると平岡は、平岡家の長男として家を支えるために小説を書き、結婚生活で次第に自由な創作が出来なくなってきたあとも、(他に選択肢のないまま)流行作家として振舞わざるを得なかったという。そしてそのことが彼の早すぎる死に繋がったのではないかという。平岡にとって生計を立てることとは、すなわち三島由紀夫という仮面を付けて舞台で流行作家を演じ続けることだった。詳しくはこの本をお読みいただきたい。

 親友だった女性の証言を一部引用しておこう。平岡が恋人(“だこ”さん)と結婚していたらどうなっていたかという問いに対する返事である。

(引用開始)

 “だこ”さんと結婚していたならば、名作が書けるでしょ、ええ、書くことが出来ましたね。
 だって、“だこ”さんとお付き合いしている三年のあいだには、『永すぎた春』や『橋づくし』のようなものばかりでなく、『金閣寺』や『鹿鳴館』と云った大きい作品を書いたんですもの。
 ――なるほど。
 今から思っても、“だこ”さんと逢っていた頃の公ちゃんは、それまでとは打って変って、何だか活き活きとしていましたもの。
 毎晩のように遊んでいながら、帰ると朝まで机に向かって、「書けて、書けて、仕方がないんだ」なんて言いながら、晴れ晴れとした顔で、張り切っていましたし……。
 やっぱり小説家なんて云う仕事は、自分の心持ちに沿った雰囲氣が大切でしょうからね。
 いくら才能があったとしても、それを發揮出来るような環境でなければ、やっぱり上手くいかないじゃないでしょうか。
 まあ、作家のなかには火宅に在って名作を生むという型もあるんでしょうけれども、三島由紀夫に限って言えば、そんなタイプではありませんからね。
 華やかで、豊な暮らしと云うものが、彼らしい名作を生むには、何より必要だったのだと思います。
 その証拠に、あれは確か、“楯の会”を作ったときですよ、「あっちゃん、もう、以前のように書けないんだよ。僕は、小説書けなくなっちゃった」などと、泣きごとを言うのを聞きましたもの…
 本書きがね、そんなことを言うようになったら、もう了(おわ)りなんじゃありませんか。

(引用終了)
<同書 291−292ページ(一部表記法を変更)>

 本来なら創作に行き詰った場合一旦筆を折り、しばらくの間別の仕事に就けばいい話だ。それが出来なかったのは、「平岡公威の冒険」で書いたように彼が精神と肉体の合一といった考えに固執し45歳をその期限としたことが一つ、もう一つは彼が職業作家以外のスキル、経営とか技能スキルを習得してこなかったことだろう。それでも、家を売るなどして生活のレベルを下げ、他のスキルを習得する期間を作ればよかったのだが、『仮面の告白』以来、「三島由紀夫」というペンネームを対社会的「鎧」としてあまりに強固なものにしてしまったため、ついにそれを脱ぐことが出来なくなってしまった。ボディービルによる肉体改造もそれに寄与したに違いない。仮面が直面になってしまったというべきか。いわば「三島由紀夫」というペンネームが「呪い」として本人に牙を剝いたのだ。

 そもそも専業作家などという職業は、近代社会が生み出した水商売の一つに過ぎないと思う。人は(どれだけ才能があってとしても)経験なしに何十年にも亘って新しいことを発見し書き続けることなどできない。それを自然と弁えて、古いテーマに新しい衣を着せて大衆に迎合した文章を書き連ねること、それが大方専業作家や専業評論家のやっていることだ。あるいは一時期筆を折って他の職業に就く。<向き合うヤスオと逃げるハルキ>に即していえば、ヤスオは別のことを始めて33年後に新しい小説を書くことが出来たが、専業作家としてのハルキは新しいことが見つかるまで意味のない文章を書き連ねざるを得ない。

 下田の芸術祭で平岡の戯曲を演ずる予定だった横山さんは、その夏、店に来た彼からアドバイスを受けることができた。『三島由紀夫の来た夏』から引用しよう。

(引用開始)

 目に見えないものが私を後押ししていた。「三島さん」と声をかける(私には三島先生と呼ぶ余裕も礼儀もなく、以降、三島さん、になった)。三島さんは、ひょっこり少女が現れてそう呼ばれたのでちょっとびっくりした様子だったが、すぐに笑顔で会釈してくれた。その笑顔で緊張がほぐれて「いつも来てくださってありいがとうございます」とまず、商売屋の娘らしく挨拶した。「あっ、ここのお嬢さんね」と三島は明るく言いながら、私の手の中にあるガリ版刷りの台本をチラッと見た。私は、文化祭で『愛の不安』を上演したこと、同年齢の道子役が難しくて上手く集中できなかったこと、秋にもう一度やるので、今度こそ納得できる演技をしたい、というようなことを一気に話してしまった。三島さんの目はとても優しく、笑ったり相槌を打ちながら聞いてくれた。ボロボロになりかけたワラ版紙の台本を、見せてという仕草をしてそれをめくって少し読んでいた。それから私を見て「今日はうれしいなあ。僕の好きなお店のお嬢さんが僕の戯曲を演じてくれるなんて。実にうれしい日だ」と言った。すっごく素敵な笑顔がこぼれた。
「いい? あなたはなにも悩むことはないんですよ」
 三十センチのカウンター越しに、白目のはっきりした吸い込まれるような瞳の三島さんがいた。

(引用終了)
<同書 57ページ>

横山さんは、仮面の下に覗く平岡の素顔を垣間見ることのできた、(家族や親友以外の)数少ない貴重な証人だ。そういう平岡公威に会いたい人はこの本を読むことをお勧めする。写真や手書きの地図もあって楽しい。

 以前ブログ記事「長野から草津へ」の項でも書いたが、『ヒタメン』によると、平岡にとって、仮面を外して生きる可能性が一瞬あったという。彼が後日、若き日の恋人と偶然店で出会ったときのことだ。当時彼女は他の男と婚約しており、平岡も既に瑤子夫人と結婚していた。その部分を同書から引用したい。

(引用開始)

 そのうち、公威さんが眼を見据えて、わたくしの前に立ちはだかったかと思うと、何の挨拶もなしに、いきなり、
「僕といっしょに、行こうよ――」
と、たった一ト言、投げつけたきり、そのほかは何も言わず、あの澄んだ眼で、熟(じっ)と、わたくしを見つめましてね……。

(引用終了)
<同書 224ページ>

その場に婚約者がいたこともあって、二人はそのまま分かれてしまう。もし彼女が平岡とあとで待ち合わせるなどしていたら、彼は三島由紀夫という流行作家の仮面を外し、「平岡公威」として生きられたかもしれない。そう思うと胸が痛む。

 『三島由紀夫の来た夏』および『ヒタメン』から計算するに、平岡が若き恋人と付き合ったのは1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)までの3年間、その後の平岡の結婚が1958年(昭和33年)、恋人との邂逅は1960年(昭和35年)、夏の下田行きが始まったのはそれから4年後、1964年(昭和39年)からのことである。
「百花深処」 <平岡公威の冒険 2>(2015年02月06日公開) |目次コメント(0)

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