先日来<
出口なき迷宮>及びブログ『夜間飛行』「
金沢の魅力」の項で、金沢の特長について、女性的な迷宮世界と禅的な茶室(反転同居の悟り)という二つの回転時空構造をバランスよくその懐に擁していると書いたけれど、この町を語る際、吉田健一の小説『金沢』を外すわけにはいかない。
この小説の内容について、『金沢|酒宴』(講談社学芸文庫)から四方田犬彦氏の解説「稀有なユートピア小説」を一部引用しよう。内山というのは吉田の分身ともいえるこの作品の主人公だ。
(引用開始)
さて内山は借家を起点として、いくぶんメフィストフェレスに似た知人の骨董屋に誘われるままにあちらこちらの個人の邸宅や料理屋を訪れ、酒宴の客となる。ここでも徹底した朦朧法が駆使されている。彼は都合六ヶ所の場所に招かれ、そこで交わした六章の対話が『金沢』の本体を形造っているのだが、その時間と空間のあり方は流動的であって、対話と酩酊の最中に自在に変化を重ね、地の現実とそこで語られている虚構との弁別が困難となる。典型的な例は第二章の後半の舞台となる屋敷である。年齢も正体もいっこうに不詳な主人に招かれた内山は冬の深夜に館で杯を汲み交わしているつもりで、いつしか秋の午後の川縁に自分が立っていることを知る。さらに続く第三章では、こうした夢幻的な光景が、たまたま訪れたとある寺院の壁に掛けられた一幅の山水画の題材であると教えられる。空間に生じることは登場人物にもいえることであって、この小説に現れる男も女も誰もが強い既視感を発散させている。寺院の女性は以前に山奥で垣間見た女性であると同時に、顧ト之が絵画に描いた女性でもある。ボルヘス的とも形容したくなるこの強烈な同一律が実のところ『金沢』を支えている原理に他ならず、それは文中にときおり出現する、スペインのゴンゴリズム(バロック詩法のひとつで単語の寓意的な置換を特徴とする)とも無関係ではない。時間の廃絶が説かれ、空間の超越が論じられる。結果として生じるのはあらゆる時空と人物、さらに言語と喩とが代替と交換を許す、範列的な宇宙である。
(引用終了)
<同書 222−223ページ>
内山が訪れる六ヶ所は、町中の屋敷、忍者寺、成巽閣、山菜料理屋、鶴来、温泉宿で、そこで出会う主たち五人、略称それぞれ山奥、住職、(顧ト之の)女、フランス(の男)、鶴来、及び骨董屋の都合六人は、最後、温泉宿に集まって内山と酒机を囲む。この小説は、それぞれの場所で繰り広げられる対話と小宇宙が、最後に集合し、大宇宙となって終わるという回転的時空構造を持つ。
主人公内山の住まい(借家)は、犀川のそばにある。女性的な迷宮世界を象徴する泉鏡花記念館のある浅野川、禅的な茶室(反転同居の悟り)を象徴する鈴木大拙館に近い犀川、という対比でいえば、後者、禅的な茶室(反転同居の悟り)の側にあることになる。四方田犬彦氏の解説にも、二つの川の対比(と吉田の立居地)が次のように書かれている。
(引用開始)
ところで、金沢という町は、一週間でも一ヶ月でもいいが、しばらく滞在しているうちに、実に微妙で移ろいやすい雰囲気をもっていると、わかってくるところである。どの側面に焦点を投じるかによって、町がまったく異なった陰影をわれわれに迫ってくるといっていい。端的な話が川である。『金沢』の冒頭にもあるように、「町を流れている犀川と浅野川の二つの川、それに挟まれている又二つの谷間に分けられてもいるこの町という一つの丘陵地帯、又それを縫っている無数の路次」が金沢旧市街のとりあえずの全体なわけだが、この二筋の川が与える印象はまったく異なっている。犀川が悠々たる川幅と水量を誇り、岸辺がただちに断崖となっているためもあってか、上方より城と小立野の森を借景とした、堂々たる眺望をもってよしとする川であるとすれば、浅野川はそれとは対照的に、間近によって川辺や橋桁の上から昏い水を覗きこむのがふさわしいような川である。寺町の「つば甚」が、古の前田候墓参時の休憩所を契機として発展したことからもわかるように、犀川を見下ろす視座は伝統的に武士階級によって築きあげられ、洗練されてきた。一方、浅野川といえば、川辺に遊芸人が仮小屋を建てて芝居を披露したり、周囲に彦三町や瓢簟町といった職人町が配列されたことからも自明なのだが、どこまでも町人の低い視座を前提として愛でられ、謳われてきた川であった。このことは彫金師を父に、能楽師を母の家系にもつ鏡花が『義血侠血』や『化鳥』から畢竟の長編『由縁の女』に至るまで、浅野川を繰り返し描きながらも、なぜか犀川に関心を寄せなかった事実とも深く関係している。浅野川こそ貧しい母子が思いつめてじっと夜の水面に見入るのにふさわしい川であって、そこには借景と眺望による無意識的な空間支配の欲望とはまったく無縁な、庶民的な生活感情こそが宿っていたのである。そしてこうした文脈で考えた場合、吉田健一は鏡花とは正反対に位置しているといえるだろう。『金沢』でもっぱら言及されているのは犀川、それも高所からの見晴らしのよさであって、浅野川は不当なまでに無視されている。ここに吉田茂と牧野伸安顕の血を引く明示四十五年生の文学者の感受性の枠組を見ることもできるかもしれない。
(引用終了)
<同書 218−220ページ(フリガナ省略)>
小説『金沢』の視座は犀川にあり、その世界観は禅的な反転同居の悟りに近い。犀川からの視座は俯瞰的だ。『
複眼主義』における、
A 主格中心−所有原理−男性性
B 環境中心−関係原理−女性性
という対比でいえば、Aの男性的(武士的)な視座に重心が置かれている。反転同居的世界観については、小説の文章から拾ってみよう。
(引用開始)
寧ろ精神にこの二つ(の色)を思い浮かべることが出来るならばその状態でそれが眼の前にあってそれは隣り合わせなのでも互いに溶け込むのでもなくてその一つがもう一つに自在に代る関係におかれて二つともそこにあった。
これ(フランスの屋敷の春と山上の寺の冬が両方とも懐かしく頭に浮かぶこと)は矛盾したことでなくて人間が同時に二つの場所にいられないことの証明に過ぎなかった。そして二つの場所にいられないのは在る場所にいることが両方に共通であるということなのである。
(引用終了)
<同書38ページと188ページ。括弧内は引用者による補足>
禅の鈴木大拙もそうだが、吉田も海外で長く暮らしていた。彼の文章はまるで関係代名詞を多用した英文のようだ。
吉田の『金沢』は、犀川を視座に置いた武士的、かつ禅的なユートピア小説ということが出来る。ブログ『夜間飛行』の「
虚の透明性」の項でも触れたように、吉田健一は『ヨオロッパの世紀末』の著者でもある。彼は、金沢という室町・江戸時代の文化様式を色濃く残す町の上に、成熟した静かな「近代=モダン」の姿を映し出そうとした。それが陰影深い。またその幻想的な宇宙の連なりは、吉田茂という政治家を父に持った彼の屈折した心情と重なっても見える。
さて、鏡花の女性的な迷宮世界と、吉田の男性的なユートピア世界とは、共に同じ「回転時空構造」を持ちながらどこが違うというのだろう。このことについては、また機を改めて考えてみたい。