今年、アフリカに題材を採った小説を三冊ほど読んだ。
『ピスタチオ』梨木香歩著(ちくま文庫)
『さようなら、オレンジ』岩城けい著(筑摩書房)
『旅立つ理由』旦敬介著(岩波書店)
梨木さんの『ピスタチオ』は去年単行本でも読んだのだが、今回文庫になったのを機に再読した。文庫カバー裏の内容紹介文には次のようにある。
(引用開始)
緑溢れる武蔵野にパートナーと老いた犬と暮らす棚(たな)。ライターを生業とする彼女に、ある日アフリカ取材の話が舞い込む。犬の病、カモの渡り、前線の通過、友人の死の知らせ……。不思議な符合が起りはじめ、何者かに導かれるようにアフリカへ。内戦の記憶の残る彼の地で、失った片割れを探すナカトと棚が出会ったものは。生命と死、水と風が循環する、原初の物語。
(引用終了)
『さようなら、オレンジ』岩城けい著(筑摩書房)は第二十九回太宰治賞受賞作で、本カバー裏の内容紹介文には次のようにある。
(引用開始)
異郷で言葉が伝わること――
それは生きる術を獲得すること。
人間としての尊厳を取り戻すこと。
オーストラリアの田舎町に流れてきたアフリカ難民サリマは、夫に逃げられ、精肉作業場で働きつつ二人の息子を育てている。母語の読み書きすらままならない彼女は、職業訓練学校で英語を学び始める。そこには、自分の夢をなかばあきらめ夫について渡豪した日本人女性「ハリネズミ」との出会いが待っていた。
(引用終了)
『旅立つ理由』旦敬介著(岩波書店)は、ANAグループ機関誌「翼の王国」に掲載された作品(に加筆・修正したもの)で、本カバー表の内容紹介文には次のようにある。
(引用開始)
マスコミのプリズムを通していない素顔のアフリカ、南米を舞台に、ふつうの人びとの真摯に生きる表情と飾らぬ姿を簡潔に写し取る21の短編。人はなぜ旅立つことを強いられるのか。いまの、日本語の、最高の、紀行文学。
(引用終了)
<句読点を補った>
いづれの作品も、アフリカと接点を持つ<アフリカ的小説>だ。
アフリカ繋がりで思うことは、『百花深処』<
反転同居の悟り>やブログ『夜間飛行』「
文化の三角測量」の項で触れた、川田順造氏のヒトと道具における三つのモデル、
A=道具の脱人間化(フランス文化)
B=道具の人間化(日本文化)
C=人間(人体)の道具化(旧モシ王国)
についてである。このABCは、
弁証法:正・反・合による進展
反転法:正・反の反転
対極法:正・反対立の持続
という「対立物の関係についての認識」とそれぞれ対応する。それは、
Aは弁証法による環境の普遍化
Bは反転法による環境と人間の一体化
Cは対極法による環境と人間の対立の持続
という対応で、アフリカ的小説は、Bの日本語世界に、Cの「対極法による環境と人間の対立の持続」を引き入れる作用があるように思う。
「文化の三角測量」の項で書いたように、川田氏も『〈運ぶ人〉の人類学』(岩波新書)の中で、われわれが「運ぶヒト」の原点に帰ることを提唱する。
(引用開始)
アフリカでは、子どもが学校へ行くときにも、本やカバンを頭の上に乗せてゆく。日本のように太陽光がつよく、暑い国で、子どものときから荷物を手に持たず、帽子代わりに頭上で運ぶ週間がひろまれば、まず間違いなく姿勢が良くなる。女性も、頭に本をのせて歩く美容体操をしなくても、靴のかかとをひきずらなくなるだろう。
リサイクル可能な植物容器の半球型ヒョウタンの器で、頭上運搬――思えばそれは、この本のはじめに描かれた、直立二足歩行を達成した「運ぶヒト」が、アフリカを旅立ってゆく姿でもあった。
自分自身の身体を使って、身の丈(たけ)に合ったものを運ぶという、ヒトの原点にあったはずのつつましさを思い出すこと――現代以降の地球に生きる私たちホモ・サピエンス、知恵のあるヒトが、その名に値するよう、他の生きものたちと一緒にさぐってゆくべき長い道のりが、私たちの前には、のびている。
(引用終了)
<同書 169−170ページより>
これは、アフリカ的小説同様、日本に「対極法による環境と人間の対立の持続」を引き入れようとする発想だと思う。
アフリカ的といえば、吉本隆明の「アフリカ的段階」のことを思い出さないわけにはゆかない。アジア的共同体のさらにその前のアフリカ的段階。川田氏の頭にもそれがあったのではないか。
アフリカという人類発祥の地の知恵は、Cの「対極法による環境と人間の対立の持続」、すなわち、人間と自然との対立を安易に「媒介物」に転化せず、対立の緊張の中から何か新しいものが生まれるのをじっと待つ態度と言える。
単行本『ピスタチオ』を読んだ折の感想を、以前、ブログ『夜間飛行』「
日本語の勁(つよ)さと弱さ」の項で次のように書いたことがある。
(引用開始)
日本とアフリカを精霊が繋ぐ不思議な物語だ。「ヨーロッパ人が最初にアフリカと出会ったとき、もっと互いの深いレベルで働いている何かを補完し合うような形の接触の仕方があったはずなのに、結局それはなされなかった。」(17ページ)という一文がある。彼女は、日本とアフリカの出会いを、「精霊」という互いの深いレベルで繋ごうと試みたのだろう。最後の“ピスタチオ―死者の眠りのために”という短編が味わい深い。
(引用終了)
これまでのヨーロッパ人がアフリカと深いレベルで交流しなかったのは、Aの「弁証法による環境の普遍化」をもって彼の地と接触したからだと考えられる。その轍を踏まぬよう、気持ちを新たにして、アフリカ的なるものを魂の深いレベルで感受したいと思う。