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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <出口なき迷宮>

 <反転同居の悟り>の項で、利休の反転法(正・反の反転)が回転法でもあることをみたが、そのことを考えながら先日金沢の「泉鏡花記念館」へ行ったら、「泉鏡花×山本タカト『草迷宮』」という展示があり、「廻転と中心軸の愛好」という言葉と出会った。

 その言葉は、澁澤龍彦の『思考の紋章学』(河出文庫)にある。「ランプの廻転」と題された、泉鏡花の『草迷宮』を論じた章だ。記念館には『思考の紋章学』の単行本が展示されていた。

『草迷宮』は、明治42年、泉鏡花が逗子に滞在していた時に書かれた作品で、そのあらすじは次のようなものだ。

(引用開始)

 魔所と呼ばれる三浦半島・葉山の大崩壊。
 ある夏、旅の僧・小次郎法師が掛け茶屋で休んでいると、村の若者・嘉吉が不意に戯れ掛かってきた。店で売る団子は石だと言う嘉吉の言葉に、茶屋の老婆は子宝を望む人に授けているという子産石について説く。そして、嘉吉が狂人になったいきさつを話す。〔第一〜第四
 かつて酒問屋に奉公に出ていた嘉吉は、ある夏、酒樽を船で運ぶ途次、同舟の男たちとともに酒を飲み干してしまう。泥酔した嘉吉を男たちから託された通りがかりの老人・宰八(実は老婆の夫)が荷車で嘉吉を運んでいると、〈明神様の侍女〉を名乗る女が現れ、嘉吉の介抱を申し出た。しかし不心得な嘉吉はその美女に狼藉を働こうとして恐ろしい目に遭い、ために気が狂ってしまったという。〔第五〜第十一
 秋谷邸の方に立ち去ったその女が口ずさんだという〈天神様の細道じゃ〉の唄は、その後、〈秋谷邸の細道じゃ〉と言い換えられ、土地のこどもたちが芙萸の葉の面をかぶって唄に興じる気味の悪い遊びが流行りだした。秋谷邸とは〈黒門の別邸〉と呼ばれる、元庄屋の鶴谷家の持ち物で、昨年の夏、立て続けに五つの葬式を出したという。老婆から供養を頼まれた小次郎法師は、黒門邸に向かう。〔第十二〜第十五
 いわくの黒門邸を目指し、鶴谷家の下男。苦虫の仁右衛門と村の訓導を相手に、邸に逗留している旅の若者の噂をする宰八。この川で五色の手毬を拾い、その持ち主に会いたいと、川の上流の秋谷邸に借家し始めた青年の身のまわりの世話をすることになった宰八だったが、その日、件の手毬は忽然と消えてしまったと青年から聞かされたという。〔第十六〜第二十
 黒門邸で対座する小次郎法師と青年――葉越明。明はこの邸で、度重なる怪異に見舞われ続けているという。明の話を聞く小次郎法師も、実は黒門を潜る際、すらりとした美しい女のような不思議な気配を感じたと告げる。〔第二十一〜第二十八
 怪異に襲われながらもここに留まる理由を尋ねる小次郎法師。明は亡き母が唄っていた手毬唄を聞くためだと告げ、唄の文句を知っているらしい幼なじみの少女・菖蒲も今は行方知れず、小川で拾った手毬が消えたのも、唄は教えない、という宣告かも知れないとその胸中を打ち明ける。〔第二十九〜第三十七
 やはり怪しい出来事に遭遇しつつ眠りに就く明。それを見守る小次郎法師の前に秋谷悪左衛門と名乗る魔物が登場。〈人間の瞬く間を世界とする〉とし、同じくこの邸に逗留するある女性を守るため、明を追いやろうとしたと話す悪左衛門。自ら立ち退くこととなった美女は、ついにその姿を現す。〔第三十八〜第四十二
 現れたのは明の亡き母から手毬唄を伝授されたという菖蒲と思しき女性。明が母を恋い慕う余りその身に降りかかる厄難を予言し、捜し求める唄は来るべき時に〈自然の感応〉で彼の耳に届くと告げる菖蒲。目覚めようとする明へのせめてものなぐさめに唄とともに手毬をつき、菖蒲たちは夜明けの空に消えていった。〔第四十三〜第四十五

(引用終了)
<「泉鏡花記念館」ガイドペーパーより。フリガナ省略>

この本の第二十三、明が小次郎法師に語る怪異現象のなかに、ランプがぐるぐると回る話が出てくる。

 主人公の明は、この秋谷邸という迷宮から出て行く意思がない。ずっとここに留まって母の子守唄を聴き続けたいと思っている。迷宮は、回転する軸構造を内包している。秋谷邸は明の「退行の夢」であり、彼は自ら進んでその夢の中に落ち込む。澁澤の『思考の紋章学』(河出文庫)から引用しよう。

(引用開始)

 退行の夢とは、いわば出口なき迷宮であろう。手毬唄と求めて日本全国を放浪しても、秋谷屋敷の魑魅魍魎の総攻撃を受けても、明の側に、一人前の大人になろうという意欲が根っから欠けている以上、それは結局のところ、永遠の堂々めぐりに終わるしかないらしいのだ。ヨーロッパの聖杯伝説の系統を引くロマン小説の主人公ならば、たとえば「青い花」に象徴されるような、何らかの形而上学的な観念を求めるたびの果てに、ついに新しい人間(ブリヨンのいうような)として生まれ変わるというようなこともあり得ようが、鏡花の小説の主人公の場合、そういうことは決して起らない。だから、よくいわれるように、鏡花には超越への意思が欠けているというのも、あるいは一面の真実であるかもしれない。ただ、私には、鏡花が一般のやり方とは逆のやり方で、無意識に彼自身の超越を実現していたような気がしてならないのである。
 奇矯な言辞を弄するようではあるが、退行とは、もしかしたらマイナスの超越、あえていえば逆超越ではあるまいか。

(引用終了)
<同書 23ページより。傍点箇所は太字とした>

この、退行=マイナスの超越という構図は、利休の反転同居の悟りと同型のようだ。ヨーロッパの弁証法とは違う、子宮願望のような、内に収斂してゆく回転と中心軸の愛好。それを澁澤は「おそらく、これが鏡花の精神の健康の秘密だったにちがいない」という。

 女性的な鏡花の小説世界と、反転同居の悟りを齎す利休の茶室。この二つの時空構造の共通性にこそ、日本文化の真髄があるのではないか。
「百花深処」 <出口なき迷宮>(2014年11月26日公開) |目次コメント(0)

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