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■オリジナル作品:「百花深処 I」(目次

「百花深処」 <反転同居の悟り>

 「反転同居の悟り」という興味深い言葉を見つけた。『茶室学』藤森照信著(六曜社)にあったもので、臨済宗大徳寺派の僧、一休宗純に発するという。どういう意味なのか同書から引用しよう。

(引用開始)

 対立物の関係についての認識では弁証法がよく知られている。弁証法は、正・反・合と説明した。まず正があり、それと対立する反が現れ、そして次のステップで正と反は影響し合い新たな合へと進む。または、正に発しながら、次の段階で反対側に動き、しかしまた正の側に寄り新たな合へとダイナミックに進む。(中略)
 こうした弁証法に対し、正と反は対立したままで合へと進まない状態もあり得る。じっとにらみ合い、その緊張感の持続からそれぞれの中では何か起る可能性がある。
 正・反・合の弁証法と正・反対立の対極法に加えてもう一つ、反転法とでも呼ぶ対立物の関係があるのではないか。正と反は薄皮一枚隔てて背中合わせで存在し、クルッと反転すると正と反は入れ替わる。対立物は、新しい合へと統一せず、離れてにらみ合いもせず、隣り合い、時には正が反を内に包み、時には反が正を内に包む。

(引用終了)
<同書 122−123ページより>

千利休はこれを秀吉相手の茶室に持ち込んだ、と藤森氏はいう。

 利休は、二畳の極小茶室を大阪城と聚楽第にそれぞれ一つずつ作り、秀吉を招いた。極小茶室は壺中天のようだが普通とは違う。外は栄華の極み、内は質素の極み。栄華と質素とは茶室のにじり口を挟んで対立している。この中で利休は秀吉と対峙する。するとどうなるか。藤森氏は次のように述べる。

(引用開始)

 普通の壺中天ではなく、反転によって外側のすべてが中に封じ込められた壷。この反転を可能にするのは、穴が小さいことと、中が閉じていること。そしてもう一つ、反転が意味を持つのは、外が真空状態ではなくものや力や富といった世俗があふれていること。
 反転は、利休一人では外が真空状態と同じで意味を持たず、秀吉というものと力と富の所有者が小さな穴を通して入ってきてくれないと反転の秘儀は成立しない。入ってくれば、世俗の物と力と富が茅屋(ぼうおく)の内に封じ込められ、極小が極大を含み、極小の中に極大もまたあることになる。

(引用終了)
<同書 116ページより>

ということで、利休は「反転同居」の構造を極小茶室に実現し、時の権力者と対峙した。

 「反転同居」とは、正反対の存在が隣り合い、時には正が反を内に包み、時には反が正を内に包み込むような関係性であり、その悟りとは、その背中合わせの対立物の只中に、平然と座して動じない仏教的信条を指す。負けて勝つというか、勝って負けるというか。いづれにしても小乗的な個人救済の思想であり、大乗的な大衆救済とは異なる。

 この構造、仏教を離れてもトポロジカルな面白さを持つ。先頃亡くなった赤瀬川原平もこの構造に興味を持った一人のようだ。いや彼はむしろ先駆者だった。藤森氏の同書から引用しよう。

(引用開始)

 ゴムマリに小さな穴を開け、そこからズルズルと中を引き出すとまたマリに戻るが、しかし同じではなく、内と外が反転している。ゴム膜が反転することに拠って以前の外部がマリの内側に入り込んでいる。
 この反転の空間的面白さを作品としてはじめて試みたのは赤瀬川原平で、一九六三年、「宇宙のカンヅメ」を発表した。日魯漁業製のカニ缶の措田川のタラバガニや会社のマークなどが印刷された紙を内側に張り替え、ちゃんと工場で蓋を閉じてもらった。そうすれば、かつて紙の周囲にあった外界は、その先に広がる宇宙を含め、缶の内側に移ったことになる。

(引用終了)
<同書 115ページより>

弁証法:正・反・合による進展
反転法:正・反の反転
対極法:正・反対立の持続

この三つの「対立物の関係認識」は面白い。たとえば、『〈運ぶヒト〉の人類学』川田順三著(岩波新書)にある、文化の三角測量(フランス文化、日本文化、旧モシ王国の比較)における、ヒトと道具の三つのモデル、

A=道具の脱人間化(フランス文化)
B=道具の人間化(日本文化)
C=人間(人体)の道具化(旧モシ王国)

を思い起こさせる。Aは弁証法による環境の普遍化、Bは反転法による環境と人間の一体化、Cは対極法による環境と人間の対立の持続。

 藤森氏は、この反転同居の悟りのことを、『つなぐ建築』隈研吾著(岩波書店)における隈氏との対談の中で「うっちゃり」と表現している。利休が活躍した安土桃山はイエズス会など西欧の思想が入ってきた時代だ。隈氏は、利休にそれが出来たのはヨーロッパとの出会いが大きかったのではという。西洋の弁証法を知ったが故に、それとは別の独自の反転法(うっちゃり)に辿り着くことができたというわけだ。

 隈氏は、その著書『小さな建築』(岩波新書)で、自作「ふくらむ茶室」は主従の序列を否定した回転型の構造を持つという。茶室には水屋が付き物だが、この二つは主従関係、序列関係にない。客と主人の空間は、陰陽ダイヤグラムのごとく、互いに攻めあい、えぐりあいながら回転する。だから利休の反転法は、回転法でもあるという。

(引用開始)

 その疑問(ポストモダニズムの伝統回帰運動への疑問)がくすぶり続けて悩んでいるときに、茶室と水屋とがからみあう回転型の構造が、突如として面白く見えはじめたのである。序列でも均質でもなく、回転し続けること、茶碗という小さな器の中の液体を軸として、主人と客という二つの主体が回転し続ける状態が面白いと思った。
 フランクフルトのふくらむ茶室では、この回転原理をつきつめて、ピーナッツ型の平面形状へと到達した。ピーナッツの殻の中に共存する二つの実のように、座敷と水屋とが対等に共存する。人はときに主人を演じ、あるときは客を演じる。役割を決定するのは、偶然であり、時間である。主人と客の二つの空間は微妙にくびれながらもつながっている。一体化しながら別物であり、対等でありながら異質である。回転の原理を導入することによって、さらにお互いの役割を転換させる「時間」というファクターを導入することによって、「小さい建築」が突如として、世界と結びつき、世界を巻き込んで回転を始める。
 日本人はただ小ささをもとめていたわけではなく、ただ世界を縮小していたわけではない。世界の中に回転軸を埋め込み、時間を通して、自分と世界とをつなごうとしていたのである。時間を媒介として、「小さな建築」の中に世界をまるごと取り込もうとしたのである。

(引用終了)
<同書 196−197ページより。括弧内の説明は引用者による>

これは、利休の「うっちゃり」のことに違いない。茶室の戦法をどう本格建築に生かすか、日本文化における「反転同居の悟り」をどう世界に示すか、それがこれからの我々の課題だろう。
「百花深処」 <反転同居の悟り>(2014年11月05日公開) |目次コメント(0)

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