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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <喪失からの出発>

 『海うそ』梨木香歩著(岩波書店)という本を読んだ。これは2014年4月、岩波書店「創業百年記念文芸」として出版された。編集者からのメッセージとして、岩波のホームページに「本書は、作家梨木香歩さんによる、東日本大震災後初の書き下ろし作品です。震災後、梨木さんは喪失というテーマと格闘し、この渾身の小説を書き上げてくださいました。ぜひご一読ください」とある。

 初めに本カバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

昭和の初め、人文地理学の研究者、秋野は南九州の遅島へ赴く。かつて修験道の霊山があったその島は、豊で変化に富んだ自然の中に、無残にかき消された人びとの祈りの跡を抱いて、彼の心を捉えて離さない。そして、地図に残された「海うそ」ということば……。五十年後、不思議な縁に導かれ、秋野は再び島を訪れる――。いくつもの喪失を超えて、秋野が辿り着いた真実とは。

(引用終了)

 本の最初に遅島の詳細な地図が載っている。この島は架空の存在なのだが、岬や入江、山や川、集落、寺院などにきちんとそれらしい名前がついており、一見、南九州沖に本当にある島のように感じられる。タツノオトシゴのような形をした遅島は、まるで日本列島の縮図のようでもある。彼女は『鳥と雲と薬草袋』(新潮社)というエッセイで、「地名に召喚される土地の記憶」を綴っているから、ここでも架空の土地にリアル感を与えようとしたのだろう。それは成功している。

 小説の前半、それらの地名と並行して、島に住む人びと、地形や気象、植生などが丁寧に描かれる。そのことで、次第に島の姿やその歴史が浮かび上がってくる。霧が晴れるように島全体が見えてくる。その筆力が素晴らしい。すこし引用してみよう。

(引用開始)

 山懐は、紫雲山と胎蔵山の間、権現谷の胎蔵山側に当たる。胎蔵山には行者たちが修法に励んだと思われる場所が多く地図に記されている。
 呼原から権現川に沿って権現谷へ入る。ひんやりとした風が奥から吹き抜けてくる。急激な温度の変化に、体が生き返ったようだ。しかし今までいたところがあまりにも暑かったのでそう感じたのだ。次第にここも、湿度高く不快なことには違いないことがわかる。
 七、八米(メートル)にならんと思われるヘゴの林に圧倒されつつ、奥へと進めば、やがてヘゴの木に代わり、幾抱えもありそうな杉の木立が現れる。これは明らかに古い年代に植樹されたものと思われた。その向こうに、数米ほどの巨石が屹立している、これが、地図にあるところの「口の権現」だろう。地図を見せ、そのことを梶井君に知らせる。川の音が響くので、声が心持ち大きくなる。
「ああ。この石。そういうことだったんですか」
 頷きながら、梶井君は石に向かって頭を垂れた。慌てて私もそれに倣う。
 そこからさらに奥へと進む。寺院群は、この崖の上に建っていたはずだった。なるほど、ここなら向かい側の紫雲山の山頂を望みつつ修行に励むことができるわけである。やがて右手に大岩が二つ、というより一つの大岩が二つに分かれた、その裂け目が現れた。稀代さは、いかにも修験者の好みそうな迫力で、裂け目の前には鳥居が残されている。廃仏毀釈の嵐から、少なくとも鳥居は難を免れたというわけであろうか。これが「奥の権現」であるらしい。中に入り、岩を登るように進み、目を上ぐれば、岩壁高く鉄鎖が下がり、役行者と不動明王の像が祀られている。さらにその奥、闇の中をぼんやり光るものは、発光性の茸の仲間だ。

(引用終了)
<同書 113−114ページより>

紫雲山や胎蔵山、権現谷や権現川の景色が眼前に拓き、「奥」という言葉が読者を先へ先へと誘う。「奥の権現」に祀られた役行者と不動明王の像、そして闇の中にぼんやりと光る茸(!)。

 後半、「五十五年後」の章まで読むと、彼女がなぜ遅島の様子をこのように丁寧に描いたかが分る仕掛けになっている。強い喪失感に襲われるが、ラスト近く「喪失とは、私のなかに降り積もる時間が、増えていくことなのだった」という言葉に読者は救われるだろう。すべてを失っても、生き残っていればまた何かを始めることができる、という希望。

 この言葉には「立体模型図のように、私の遅島は、時間の陰影を重ねて私のなかに新しく存在し始めていた。これは、驚くべきことだった。喪失が、実在の輪郭の片鱗を帯びて輝き始めていた」という文章が続く。そう、何を始めるにしても、生き残ってさえいれば、決して遅くはないのだ。

 本当の遅島は、主人公秋野(と読者)の脳裏に存在する。いや、もはやそれは秋野(と読者)の脳裏にしか存在しない。しかしだからこそ、彼がこの島に関わって何かを始めることが決定的に重要なのだ、と梨木さんは言いたいのではないだろうか。

 存在論の逆説性。小説「あなたの中にあなたはいない」でも書いたように、自分(わたし)という人間は、自分の中には居らず、他人の記憶の中にしか存在しない。勿論、日常的な意味での自己は自分に意識できるけれど、自分という人間の本当の価値はなかなか自分には分らない。逆に言うと、自分の中にあるのは、両親や恋人、恩師や友人など自分が大切に思う人に関する記憶なのである。

 そのことに思い至れば、自分が大切だと思う土地や世界も、自分の脳裏にしか存在しないことが分る。それが失われてしまった場合にはとくに。だから、その土地や世界を大切に思うのであれば、自分が何かを始めることが決定的に重要なのだ。そうすることで初めて、自分が大切だと思ったことが、他人(この小説では秋野の息子佑二)に伝わっていく。他人に伝わってはじめて、大切な思いは「名前」として残っていく。

 小説の最後に梨木さんは、「長い長い、うそ越えをしている。越えた涯は、まだ名付けようのない場所である」と書く。遅島が日本列島の隠喩だとすれば、それは「さあ、一緒に手を携えて、喪失から立ち直りましょう」というメッセージに違いない。

 最後に、ストーリーの紹介も兼ねてこの小説の新聞書評を一つ引用しておこう。この作品の素晴らしさがより伝わると思う。

(引用開始)

リアルにほのぼのと描く喪失

 『家守綺譚』が梨木香歩の最高傑作なら、本作はふたつ目の最高傑作だと思う。
 「昭和に入ってから、あと数年でもう十年になる」頃、某大学の地理学科に所属している秋野は調査のために遅島にきていた。遅島は南にある大きな島で、修験道のために開かれた。明治初年までは大寺院があったが、廃仏毀釈で打ち壊された。寺の残骸は藪におおわれて見る影もないが、「奥の権現」「薬王院」などは地名として残っている。
 秋野は一昨年、許婚を亡くし、昨年、父親と母親を亡くし、今年、指導教授が亡くなった。次々に愛しいもの、親しい者を亡くした彼は、教授の残した調査報告書に書かれていたこの島に心惹かれてやってきたのだった。
「その地名のついた風景の中に立ち、風に吹かれてみたい、という止むに止まれぬ思いが湧いて来たのだった。決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する光景の中にいたい。そうすれば人の営みや、時間というものの本質が、少しでも感じられるような気がした。」
 秋野は、大寺院の跡を中心に、島の南部の探査に出かける。案内人は二十歳前後の青年。ふたりは一週間かけて島を巡る。そして島の虫や植物を観察し、動物に出会い、言い伝えに耳を傾ける。ミカドアゲハ、芭蕉の大木、コノハヅク、雨に日に海からやってきて「縁側にずらりと並んでおんおん泣いていた」という「雨坊主」。それらがユーモラスに、さびしげに、リアルに、ほのぼのと描かれていく。読んでため息がもれてしまうほどだ。
 やがて大小の礎石だけが残っている大寺院跡に行きつき、圧倒的な山や空、海をながめて、秋野はつぶやく。「空は底知れぬほど青く、山々は緑濃く、雲は白い。そのことが、こんなにも胸つぶれるほどにつらい。」
 最終章では、それほどまでに深く心に巣食っていた悲しみの所以が明らかになり、秋野は「喪失とは、私のなかに降り積もる時間が、増えていくことなのだった」と思い至る。
 ていねいに読んできた人は、はっと息を飲むだろう。何気なく語られてきた、雲のなかで立ったまま凍死したカモシカのエピソードや、香に似た蚊遣りの粉の話などがここで、新たな意味を持って立ち上がってくるのだから。
 200ページ足らずの本がこれほど多くを語りうることにあらためて驚く。しかしこれは魔法でも奇跡でもない。これこそが本の持つ力なのだ。

《評》翻訳家 金原瑞人

(引用終了)
<日本経済新聞 2014年5月18日、フリガナ省略>

この力作、どうぞ皆さんも手にとってみて戴きたい。東日本大震災の死者への想いも籠めて。

 尚、梨木香歩さんの作品については、これまでブログ『夜間飛行』の、

両端の奥の物語」(『水辺にて』などのエッセイについて)
日本語の勁(つよ)さと弱さ」(小説『ピスタチオ』について)
竜神伝説」(小説『冬虫夏草』について)

などの項でも紹介してきた。併せてお読みいただけると嬉しい。
「百花深処」 <喪失からの出発>(2014年10月29日公開) |目次コメント(0)

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