その酒場は、ドレーゴ広場から坂道を上がる途中にあった。店の名は「カフェ・グレコ」、あのローマにある古いカフェと同じ名前だ。ここは港に出入りする漁船の船乗りたちの溜まり場だ。彼らは、陸で過ごす短い時間を貪り尽くすべく、酒を飲み、賭博に打ち興じ、タンゴを歌い踊り、そして女たちと上の階へしけ込む。
しかし今はまだ朝だ。でっぷりと太ったギリシャ人の店主ヴァラスが、道に椅子を出して新聞を読んでいる。リオのサッカー・ワールドカップ、三日前の試合はロメロが2本のPKを止めたお陰で辛勝したが、明日の決勝ではメッシがきっと得点を挙げてくれるだろう、店主は頭の蝿を手で追い払いながらそんなことを思った。
ノルマは、二階の窓から通りを見下ろしていた。昨日の客は朝早く部屋を出て行った。今日からまた漁に出て一月は戻らないという。ノルマは待っている。いつかきっとカルロスが戻ってくるのを。最愛の男が戻ってくるのを。
アルゼンチン籍の漁船がアフリカ沖で座礁し、多くの船員が海に投げ出され死亡したのは一年前のことだ。その日、ノルマはサン・ペドロ・テルモ教会のミサに行った。ミサが終わったとき、祭壇の蝋燭が突然消えた。嫌な予感がした。死亡した船員の名前が新聞に載ったのは、事故が起きてから一週間後のことだった。その中にカルロスの名前はなかった。
一ヵ月後、店にきた男から、座礁した船にカルロスが乗っていたことを知らされた。「やつは犠牲者の一人らしい」と男が云った。ノルマは新聞記事のことを男に話した。男は、死んだ筈の船員の一人が先日ひょっこり帰ってきたことを例に、「いい加減な名簿のまま出航しちまうことはよくあるからな」といった。とにかくその後カルロスは一度も店に現れない。誰も彼の消息を知らなかった。
ノルマの父親は、まだ彼女が小さかったときに炭鉱の事故で死んだ。子供たちを養うために無理をして母親は身体を壊した。そのあと年長のノルマが母親の役目を引き継いだ。はじめは酒場で女給として働き始めたが、母親が死んだ後、娼婦として客を取るようになった。妹と弟は今もノルマの稼ぎに頼って暮らしている。
ノルマがカルロスと出会ったのは、三年ほど前にことだ。男は店の奥のテーブルで一人酒を傾けていた。船乗りが好んで飲むラムの濃い酒だ。いつか好い男が現れたらこの商売から足を洗おうとノルマはずっと思っていた。カルロスを見たとき、ノルマは胸の高まりを覚えた。
ノルマは男を上の部屋にではなく表へ誘った。男は黙って従った。港に続く小径を歩きながら、彼女は男に自分の生い立ちを語った。
「なぜそんなことを俺に?」男はそうノルマに訊ねた。
「さあ、なんとなく。お前さんなら話せるような気がしたから」
二人は公園で絵を見たり、通りの土産物屋をひやかしたりしながら街を歩いた。別れ際、男は名を名乗り、次の航海が終わる一月後にまた戻ってくるといった。
「事故からもう一年になるね」オリビアがノルマにいった。
「十年は経ったような気がするわ」ノルマが答えた。
まだ昼の時間、酒場は閑散としていた。ノルマはオリビアと窓際の椅子に座って化粧を直していた。二人は商売仲間のうちでもとくに親しい間柄だった。店主が床を拭いている。カウンターの奥でバーテンダーがグラスを磨いている。店の奥では男が二人ビリヤードに興じていた。
「ねえ、事故のあと店に来た男、あれ、カルロスに頼まれたんじゃないかしら」オリビアが思い着いたように言った。「彼があの船に乗っていた、と告げにきた男よ。カルロスはあなたと別れたいから友達に頼んだ。座礁事故で死んだことにすれば、あなたも傷つかないでしょ」
「そうは思わない。私のカルロスは必ず戻ってくる」
「だって、あの男もその後店に来ないじゃない」
「カルロスはそんなことをするような人じゃないわ。自分ではっきりと云う筈よ、もし別れたいのなら」
「彼が戻ってこなかったら?」
「そういえば、あの日私は教会にいた」ノルマはあの教会での出来事をオリビアに話した。ノルマはそのことを今まで誰にも話さなかった。話してしまうとカルロスに本当の死が訪れるような気がしたからだ。しかし一年の歳月は長い。
……船の上で、カルロスは酒場で会った女のことを想った。抱いた女は寄った港の数ほどいたけれど、今までずっと独り身でいたのは、これはという女に巡り会わなかったからだ。しかし、夜、甲板で星を眺めていると、そろそろ身を固める時期だと思うようになった。その矢先、ノルマと出会ったのだ。運命的なものを感じたとしても不思議はない。女の商売は気にならなかった。もともと天涯孤独の身だ。幼い頃両親をなくし兄妹も居ない。教養もない。知っているのは漁のことだけ。高望みできる身分でないことは自分が一番よく知っている。
港に戻ると、カルロスはカフェ・グレコへ向かった。ノルマをみると男は「すぐにとは行かないが、金がたまったら一緒になりたい」といった。ノルマは天にも昇る気持ちだった。その夜、二人は男の宿で愛を交わした。ノルマを残して宿を出る朝、男は「また一月もしたら戻る」といった。
カルロスはそれから周りが驚くほど変わった。それまでは酒にしか興味のなかった男が、料理長の手伝いを始めたのだ。漁の合間に仕込みや皿洗いをし、港へ着くと食材の買出しに同行した。料理長も料理のことを一から教えて欲しいというカルロスの申し出を喜んだ。
カルロスは次第に料理の腕を上げた。街に戻るとノルマを連れてレストランを回るようになった。食後、陽気に歌い、ノルマとタンゴのステップを踏んだ。そんな逢瀬が幾度もあり、「次に会うのは俺が船乗りの生活を終えるときだ」そういって出ていったのが、ノルマの男を見た最後だった。「今度はいつもと違う船に乗る」とカルロスが言ったのをノルマは覚えている。そして漁船事故が起きた。
夕暮れが迫り、酒場は活気を取り戻しつつある。ヴァラスは店のいたるところに明日の決勝のちらしを貼った。ポルテーニョたちが口角泡を飛ばして祖国とドイツ、どちらが強いか口論している。
「ドイツの方が強いなんぞというやつはさっさと出ていけ!」
「冷静になれ、決勝トーナメントに入ってからメッシは点を入れてないんだぞ。やつがゴールを割らないでどうやって我々が勝つんだ」
「ロメロがいる。相手に点はやらないさ」
「それじゃまたPK戦か?この間のように」
「敵のゴールキーパーは曲者だぞ」
「メッシはかならず点を入れるさ」店主ヴァラスが呟く。
それを聞いた客の一人が店主に次のような話をした。男の一人息子ニコスはかつて、ナショナル・チームの英雄メッシと同じサッカー・クラブに所属していた。まだ十代の頃のことだ。当時ニコスはメッシよりも将来を嘱望されたが、ある日練習試合中に脳震盪を起こして死んでしまった。あっけない最後だった。駆けつけた男は、横たわる息子の遺体を見てもその死が信じられなかった。今にも息を吹き返しそうだった。メッシが最後まで付き添ってくれた。身長にハンディを負っていたメッシをいつも勇気付けたのがニコスだった。二人はいつも一緒だった。FC・バルセロナに入団したメッシが一部リーグ戦デビューを飾ったシーズン、一人喪章を着けて試合に臨んだ日が息子の命日だったことを知っていたのは、遠く離れた祖国で試合を見ていた自分だけだったろう。男はTVでメッシを見るたびに、姿形は違っていてもそこに自分の息子がいるような気がする、と言った。とくに今はそうだ。ここからそれほど遠くないリオで、ニコスはメッシと共に戦っているに違いない。
夜になった。オリビアは、窓際の椅子に座るノルマを見るのが辛かった。他の女たちは男の膝に乗ってふざけ合ったりしているというのに。ノルマは空ろな目で通りを眺めている。カフェは煌々と明るかった。音楽が鳴っている。通りを行きかう男たちは店内を伺い、ある者は中に入り、別の者はそのまま通り過ぎた。ノルマは愛想笑い一つするでもなくじっと通りを眺めている。曲が変わった。ピアソラのタンゴだ。男たちが女の手を取ってフロアで踊り始めた。幾つものペアが床をすべるように動く。
「彼女、今夜はとくにひどい様子ね」オリビアが店主に目配せしながらいった。
「ほっとくさ、そのうち立ち直るだろう。昨夜だってそうだった」
「今日はとくに様子が違うの。わたし昼間へんなことを言っちまったのよ。それをノルマが気にしているに違いないわ」オリビアは昼間の会話を店主に話した。「祭壇の蝋燭が消えたなんて、縁起でもない」オリビアは首をすくめてみたものの、落ち込んでいる親友を救う手立てはさしあたり何もない。
……その夜遅く、ノルマは男の姿を店の奥に見つけて息を呑んだ。ビリヤード台を囲む男たちに隠れるようにして、三年前と同じように一人で酒を飲んでいる。頭上に置かれたTVが三日前の試合を流している。男たちは結果の知れた試合に一喜一憂している。カウンターでヴァラスが「明日は勝つさ、きっとドイツ人たちを地球の向こう側まで蹴飛ばしてやる」と前の客と話している。店主も男たちも、まだ誰も翌日の結果を知らない。
男はノルマを二階の部屋に誘った。ノルマは男と身体を合わせながら、その肌触りにいつもと違うものを感じた。しかし黙っていた。そうしないと二人の間の何かが消えてしまうように思った。海が見える。遠くに浮かぶ船が見える。しかしもうそこまで辿り着く力はない。そうして事が終わった。
「事故に遭ったというのは本当じゃなかったのね」ノルマは男に話しかけた。
「なんのことだ?」
「座礁事故よ、一年前の」
「さあ、知らねえな」
「いいのよ、知らなきゃ。じゃあこの一年どこに行っていたの?」
「あちこちさ」
「お金は溜まったの?」
「いや、まだだ。悪いがもう少し我慢してくれ」
「いいわ」
「そうしてくれノルマ」男は寝返りを打ちながらいった。
「明日の試合に大金を賭けた。きっと勝つ、そうすれば……」
ノルマはカルロスがそんなことをする男ではないことを知っている。何かの間違いだわと思いながら、心の奥底で、彼女はあることを納得する。オリビアが昼間言ったことを思い出す。しかしそんなことではない。カルロスはこうして会いに来てくれたじゃない。
「休むといいわ、心ゆくまで休むといいわ」ノルマは男の背中に向かってそっと囁いた。
深夜、ノルマは出てゆく男を二階の窓から眺めた。男はドレーゴ広場への道を下ってゆく。星の降る夜だ。光が拡散して男の背中を通り抜ける。海の上はさぞ星がきれいだろう、とノルマは思った。