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■オリジナル作品:「あなたの中にあなたはいない」(目次

「あなたの中にあなたはいない」 第七回

 山の中で、僕はいよいよ車から離れる覚悟をした。このままでは車ごと土砂崩れに呑み込まれる恐れがあった。山を下りるよりも、とりあえずさっきの山小屋まで歩いていこうと僕は考えた。暴風の中、僕は車から降りてトランクを開けた。トランクには非常用の懐中電灯や工具一式、そして大きな毛布が一枚入っていた。僕は後部座席のドアを開け、かおりさんの器と僕の花瓶が入った袋をその毛布で包んだ。器はなんとしても守らなければならかった。

 毛布の包みを抱えて外に立ったとき、ふと、あるアイデアが頭に浮かんだ。泥の上にこの毛布を敷いて、その上に前輪駆動のタイヤを乗せれば、スリップせずに車を前へ進ませることが出来るかもしれない、と僕は思った。
 僕は、路肩の石と泥を使って、光が車の下に当るように懐中電灯を設置した。雨滴が激しく僕の体を叩いた。それからジャケットを脱いで車の下にもぐりこむと、広げた毛布を慎重に前輪の下に敷いた。それから運転席へ戻り、車をゆっくりと前進させた。アウディの前輪タイヤがゆっくりと毛布の上へ乗る手ごたえを僕は感じた。

 一旦外に出てタイヤ状況を確認すると、タイヤは確かに毛布の上に乗っていたが、土砂によって毛布自体が泥まみれになってしまい、そのまま前進すれば、タイヤが毛布を巻き込んでしまう恐れがあった。

 僕はもう一度車を後ろに下げ、毛布を取り出し、泥を払い、それを二重に折って厚さを倍にしてふたたび前輪の下に置いた。幸い毛布は大きかったから、二つに折ってもまだ前輪二つが乗るくらいの横幅は確保できた。そしてまたゆっくりと車を前進した。すると、さっきよりも毛布が泥まみれになる度合いは少なくなった。

 それに力を得た僕は、ふたたび毛布を取り出して、今度は三重、四重に毛布を縦に折ってそれをタイヤの前に設置した。すると今度は確実にタイヤをその毛布の幅の分だけ前進させることができた。しかし縦幅は三重、四重に折ることで狭くなったから、車はほんの少し前進すると毛布を乗り越えてしまう。その間も風雨は激しさを増し、斜面からはときどき石が転げ落ちてきた。

 僕はタイヤが毛布を越えるたびに、毛布を車の下から引っ張り出し、泥を落とし、懐中電灯の光の方向を調整し、ふたたび毛布をタイヤの前に設置するという、いわば孤独な人海戦術で、泥のいちばん深いあたりをなんとか乗り越えた。そのあと今度は逆に毛布をいっぱいに開いて、前後の車輪が毛布の上を前進できるようにした。泥がすこし浅くなっていたので毛布があまり下に沈み込まず、僕は毛布の上でタイヤをゆっくりと回転させることができた。やがてとうとう僕は車ごと泥沼から抜け出すことが出来た。

 しかし一難去ってまた一難だった。ようやくさっきの舗装道路に戻ることができたが、橋の付近まで来ると、川の水が道路の上にまで氾濫していた。暗いのでどのくらい深く浸水しているか分からない。僕は車を降り、懐中電灯を手に、歩いてその深さを確認しようとした。しかしすぐに水が膝まで来た。その時点で僕は車で前へ進むことを諦めざるを得なかった。

 僕は車に戻り、舗装が終わって砂利道になるところにあった少し開けたところまでバックで戻った。例の蜂の巣箱が置かれているところだ。そこまでは水がくることはないようだった。そこは狭かったけれど土砂崩れによる被害が起こりそうな斜面もなかった。倒木が車に当れば終わりだがそれは運を天に任せるよりなかった。

 しかし問題が発生した。後部座席に戻した筈の布袋がないのだ。記憶を手繰り寄せると、毛布を使って車を動かしているときは夢中で気付かなかったが、僕は、毛布を車の下に入れることに集中するあまり、袋をちゃんと後部座席に戻さずに、土砂崩れの現場の道路わきに置いたままにしていた可能性があった。車のトランクの中や、座席の下などくまなく探したが、無情にも袋は見当たらなかった。

 その場所で車の向きを変えるのは難しかった。といって土砂崩れの現場まで、慣れていない車でバックのまま戻るわけには行かなかった。それは危険すぎた。歩いて戻るにはその場所は遠すぎた。僕は疲労困憊していた。どうしたら良いかわからなかった。しかしあの器の大切さを思うと、そのままここに留まるという選択肢がないことだけははっきりしていた。

 僕は車中にメモを残し、懐中電灯を持って暗い山道を出発した。あの土砂崩れの現場まで歩いて戻ることにしたのだ。幸い道は分かっている。まっすぐ来た道をもどれば現場に着くことははっきりしている。どれだけ距離があるかが問題だが、車では慎重に運転していたから、実際よりも遠く感じただけかもしれないと僕は自分を励ました。

 車で通ったときよりも道は上り下りがあるように感じた。雨足は弱まる気配が無かった。激しい風が僕の横を吹き抜けていった。夜の闇の中で大木が狂ったように枝を踊らせていた。懐中電灯の光だけが頼りだった。谷に差し掛かると両側の斜面から土砂が滑り落ちてきた。どこかでズシンという音がした。

 僕は歩きながら、由美子と一緒に行った岐阜の旅行のことを思い出していた。流域研究所の下村所長が僕に、“不変項”という言葉を教えてくれたのもその旅行中のことだ。NPO法人の人と一緒に水車を使った発電機を見学し、そのあとその電力を使ったトウモロコシの食品加工工場も見せてもらった。町ではさらに二基の少水力発電設備を設置し、売電で得た利益を特産品などの農村振興の原資にするとの話だった。そういう営みを通して持続可能な地域を作っていこうというのが彼らの考えだった。見学を終えてから、僕たちはNPO 法人の人たちと酒を飲んだ。由美子は、このようなエネルギーの地産地消の試みこそ、21世紀の街づくりに欠かせないものよ、と興奮気味だった。旅館の部屋へ戻ると、僕たち二人は愛し合った。淡い月の光が窓から射し込んでいたことを覚えている。僕は由美子の温かい肢体の感触を想い起こした。

 ふと、僕はその日家を出てから何も食べていないことに気がついた。さきほど泥と格闘したことで体力をすっかり消耗していた。僕の頭には、由美子のことやお袋と親父、叔父さんや島田さんなど僕が大切に思う人々のことがあった。勿論、濡れそぼった身体の感覚はある。空腹感、車の下の入ったときに擦りむいた手の甲、水浸しの運動靴の中の重い足。しかしそんなことよりも、早く土砂崩れの現場まで戻って器の無事を確認すること、そして生き延びて由美子と会うこと、それだけが今の僕にとって意味のある大切なことだった。僕は由美子に会いたかった。会って自分が悪かったと謝りたかった。今から考えれば大げさだったかもしれないが、山の中にいるとき僕は本当にこのまま死んでしまうかもしれないと思ったのだ。そしてその時、僕は“わたしの中にわたしはいない”ということばの本当の意味を理解したのだ。いざとなったとき、大事なのは、自分の中にいる大切な人たちだった。そしてその人たちのためにこそ、自分は生きなければならない。やがて僕は疲労困憊の極みに達してそこに蹲った。もう一歩も前へ進めなかった。路肩の大きな木の下に身を寄せてた。そこで僕は深い眠りに落ちた。

(続く)
「あなたの中にあなたはいない」 第七回(2014年07月20日公開) |目次コメント(0)

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