かおりさんがガラス工芸を始めたのは、今から二十年ほど前のことだという。安曇野に移り住む前は、東京の小平に両親と一緒に暮らしていた。多摩美でガラス工芸を専攻し、そのあと八王子の工房で見習いとして数年過ごした。十年近くたってやっと自立できるようになった頃、空シリーズの元となる、器の底に反射フィルムを埋め込む技法を思いついた。凡そ五年前より、各地の展示会から声を掛けられるようになり、作品もぼちぼち売れるようになった。彼女は作品を、底に反射フィルムを埋め込む独自の器と、花瓶などの注文容器、それにガラスのオブジェという三カテゴリーに絞った。作業場はそのまま八王子の工房を使わせてもらっていた。
かおりさんには四つ違いの弟がいた。父親はサラリーマンで、小平の前、家族は四国や東北などあちこち転々として過ごしたから、幼い頃から二人は仲が良かった。弟が学校でいじめられるといつもかおりさんが助けたという。
弟さんは山登りが好きで、二十代最後の年の春、記念にといって一人で北アルプスへ出かけた。そのとき槍ヶ岳で大きな雪崩が起きた。多くの人が助かったけれど、弟さんと他4名が遭難した。いつもは友人と登るのにそのときは都合で一人だったことも災いした。かおりさんは両親と共に麓で救助隊からの連絡を待ったが、残念ながら弟さんの行方はわからなかった。他の四人の遺体が発見されたあとも、弟さんだけは行方不明のままだった。やがて捜索は打ち切られた。
その後、かおりさんは縁があって安曇野のこの工房を借り受けることになった。いつまでも八王子の工房を借りているわけにもいかなかったし、ギャラリーFlussに作品を出展した時、オーナーがいい物件がある、とここを紹介してくれたからだ。三年前の春のことだ。家賃は安くないけれど、槍ヶ岳の麓のこの場所に工房を借りることが出来たのは弟に導かれてのことのような気がした、とかおりさんはいった。彼女は工房には住まず、松川村に別にアパートを借りているとのことだった。遅くなって泊まるために小屋のロフトに寝具だけはおいてある。
それはその年の夏のことだった。かおりさんはいつものように吹きガラスで注文容器を製作し、研磨機でオブジェを磨き、そして最後に自分の器作りに励んでいた。夜になってあたりが暗くなり始めた頃、窓の外に人の気配がした。かおりさんは表へ出てみたがそこには誰もいなかった。作業場へ戻り、再び器作りに没頭しはじめたとき、かおりさんは作成中の器の底に不思議なものが見えた。「器の底に弟の顔が浮かんだの」かおりさんはそういった。
「幽霊ってことですか?」僕は驚いて尋ねた。
「いいえ、そうじゃないと思うわ。反射フィルムにわたしの顔が映っただけだと思う。でもその顔は弟だった。一瞬のことだったけれど、でもそれは間違いなく弟の顔だった。しかもずっと幼い頃の顔」かおりさんはそういうと、どこか遠くを見るような顔つきでいった。「そのとき、“わたしの中にわたしはいない”というテーマが心に浮かんだの」
「どういうことですか?」
「わたしはガラスの器作りを始めたときから、かならず誰か大切な人のことを想いながら作るようにしていたわ。注文容器やオブジェを作るときはそれ程でもないのだけれど、自分の器をつくるときだけはそうしていたの。邪念を払うような意味で。その日のいろいろな出来事や出会った人のことが頭にあると器作りに没頭できないから、それを防ぐために、だれか大切な人への気持ちを器に篭めるようにしていたわけ。しかしその三年前の夏の夜、それはただ邪念を払うためだけじゃなくて、わたしの中のその大切な人自身が、わたしの身を借りてこの器を作っているんだ、ということに気付いたの」
「以前ある小説で、理解は誤解の総体だっていう話が書いてあって上手いことを言うなって感心したことがあるのだけど、なにかそれに通じるような不思議な言葉ですね」と僕はいった。
「理解は誤解の総体?」
「そう、人は何かを理解したと思ってもその裏には知らないことがまだまだ沢山あって、誤解していたと分かって理解を増やしても、その先にまた裏があるから、結局、理解するってことはそういう誤解の総体だってことらしいんです。“わたしの中にわたしはいない”というのも、自分のことでも知らないことが多いから、自分は誤解の総体だということではないかと」
「なるほど。わたしのテーマはちょっと違う。“わたしの中にわたしはいない”というのは、“わたしの中にはあなたがいる”ということなの」
「でも“わたし”がいるから作品が出来るのでしょ?」僕はいつもの癖でまた言わずもがなのことを口にした。
「勿論、日常的にはわたしはわたしの中にいる、それは勘違いしないで。でも、そんなわたしは、わたし自身にとって価値のないものなの」
「価値がない?」
「日常的なわたし、買い物をしたり、食事をしたり、ガラス作品を売ったり、家賃を支払ったり、眠ったりするわたしは確かにいるけれど、わたしにとって価値があるのは、そういうわたしではなく、わたしが大切に想う“あなた”の方だっていうこと。この器を作っていた時、弟がそうわたしに教えてくれたの。そのときから器に空シリーズと命名して、“わたしの中にわたしはいない”というテーマを掲げたのよ」
由美子のことが再び僕の頭に浮かんだ。「僕のガールフレンドは、僕と同じ大学で都市工学を勉強しているのですけれど、安曇野の川が好きで松川村、といっても麓の方だけですけれど、ときどき一緒に来たことがあるんです。街づくりでも“不変項”という考えがあるらしくて、それは、風景なり建物なり祭りなり、その場所にあり不変なもの、永く伝えられていることは、人々の記憶の中核を成すものだから、街づくりに欠かせない要素だってことなのです。安曇野にとってのそれはやはり川ですかね。かおりさんのいう“あなた”も、自分にとって欠かせない要素だという意味で、その“不変項”に似ていますね」
「面白いわね、その考え方。わたしがこのテーマを想いついたのは、弟のことも勿論あるけれど、安曇野の自然とこの工房の脇を流れる川の力もあるかも知れない。今度由美子さんに是非お会いしたいわ」
かおりさんの長い話が終わると、もうあたりは暗くなりかけていた。話に夢中になっていたせいで気付かなかったが、外は風がさらに強くなっていた。戸を開けて外へ出ると、雨も降り始めていた。台風がなにかの加減で急に北上を始めたのかもしれなかった。
工房にはテレビも固定電話もなかった。かおりさんが戸口に立って携帯電話で天気予報を調べようとしてくれたが、なぜか彼女の携帯は繋がらなかった。僕も携帯電話を掛けようとしたけれど、肝心の携帯が見つからなかった。かおりさんは、危ないから今日はここに泊まっていったらと言ってくれたが、僕はとにかく早く松本まで帰りたかった。運転に自信もあった。若気の至りというのだろうか。僕は引き留めるかおりさんに一方的に礼をいい、借りた貴重な器の箱と自分の歪んだ小さな花瓶の入った大きな袋をアウディの後ろの座席に置いて、車のエンジンを掛けた。
(続く)