松川村へ入ってからあちこち道に迷って、僕が水本かおりの工房へ到着したのは約束の時間を二十分ほど過ぎた頃だった。かなり山に入った、流れの激しい川沿いの敷地にその工房はあった。切妻屋根の小屋で、大分年代物なのか、ところどころ壁板のペンキが剥げ落ちている。平入りの入口の左右には、薪やガラスの研磨用砂袋、木炭などが積まれていて、右奥の煙突からは微かな煙が風に煽られていた。
叔父の黒いアウディを敷地に乗り入れると、水本かおりさんが入口の戸を開けて僕を出迎えてくれた。青い縞模様の長袖のTシャツの上から作業用の胸まである舞掛けをしめている。年恰好は三十歳後半ぐらいだろうか。
「篠田竜さんね」車から降りる僕に水本さんがいった。
「そうです、始めまして」僕はギャラリー“空(そら)”で作ってもらった名刺を差し出して頭を下げた。
「島田さんからお話は聞いています。さあ、どうぞお入りになって」水本さんは僕を小屋の中へ案内した。
戸口を入ると、外から見たときよりも内部は広々としていた。右手奥にガラスを溶かすための釜があった。外から見えた煙はその煙突からのものに違いない。釜の上の天井は梁だけで、切妻屋根の形がそのまま見えた。それが内部を広々と見せているのだろう。釜の手前にはガラスを整形するための様々な作業台や道具が置いてあった。入口の左手にはガラスを研磨する機械があった。完成した作品を置く棚もあった。そちら側には天井があり、上はロフトになっているようだった。戸口の正面にはストーブがあった。ストーブの奥は壁に仕切られていた。壁といっても上まで仕切られているのではなく、奥の窓の光が作業場にも届くようになっていた。壁の向こうにはロフトに上がる階段の一部が見えた。
水本さんは、僕を作業場の椅子に座らせてくれた。僕はジャケットを椅子の背に掛けた。「何もお構いできないけれど」といいながら、彼女は熱いお茶を淹れて僕の前の作業台の上に置いた。
「遅かったからどうなさったかしらと思っていたのよ」水本さんはそういってもう一つの椅子に腰かけた。ほっそりしていて整った顔立ちだが、薄化粧のせいか、時代に取り残されたような悠然とした雰囲気があった。しかしきりりと閉じた口元が意志の強さを示していた。
「叔父が書いてくれた地図がいい加減で」僕はそう言い訳をした。
「このあたりは道が入り組んでいて分かりにくいのよ」
「山に入る道が幾つもあって、それで間違えたようです」
「竜さんは豊屋さんのところの嫡男なのね。先日島田さんから伺いました。豊屋さんにはときどきお世話になるわ。わたしにとってゆっくり温泉に入りたくなったときに行く旅館の一つよ」
「親父が後を継げと煩いのですが、自分は旅館の経営なんか向いていないし、今の時代、もう家族経営でなくてもいいと思っているんです」
「そう、じゃなぜ叔父さまのギャラリーを手伝っているの?」
「純粋なバイトです、これは」
「そうなの、わたしは旅館経営のための勉強かと思った。じゃ将来はなにをやりたいの?」
「そう訊かれると困ります」
僕は由美子のことを思い出した。もし喧嘩していなければ、今日も一緒にギャラリーへ行き、そのままここへ二人で来ていたかもしれなかった。
「そうね、まだ若いんだもの、これからいろいろと試してみれば、だんだん向き不向きが分かってくるわ」
「そんなもんでしょうか。でも豊屋を使っていただいているって嬉しいですね」僕はお茶を啜りながらそういった。それから、あらためて作品を貸してもらう礼をいった。
「今度のお話は例外なのよ。この器はあまり単独ではお貸ししないの。とても特別な想い出があるものだから」水本さんはそういうと、左の部屋の棚からその作品を両手で支えるようにして持ってきてくれた。
それは、透明がかった水色の大振りな器だった。色合いはちょうど雨が上がったときの空のようで、光の加減によっては、水色というよりも碧がかった蒼色に見えた。青磁の陶器をずっと透明にしていって、井戸の水を入れ、木陰に置いた処、とでも形容したらよいだろうか。透明度が高いにも拘らず、ガラス生地は肉厚でどっしりとしていた。底から口に向けての傾斜がちょうど逆さ富士の角度で、素人の僕にもそのフォルムの力強さが伝わってきた。上から覗き込むと、底の方に自分の影がうっすらと映った。
「この器はわたしの空(そら)シリーズの最初の作品よ」
「空シリーズって、叔父のギャラリーの名前と同じですよね!」僕は驚いていった。
「そう、島田さんに出展のお話をいただいたときわたしも驚いたわ。何かの縁を感じて、それで今回、例外としてお貸しすることにしたの。お話は大分以前に戴いていたのだけれど、しばらく留守にしていてご返事が遅れて御免なさい」
「いいえ、ガラス展は今週末からだから、まだ充分間に合います」
「空(そら)というのは、何でも映す鏡から付けた名前よ」
「虹の原理ですね。光線が大気中の分子に衝突してプリズムみたいに色が散乱するという。叔父のギャラリーも作品を引き立てる空間ですから空(そら)という名がふさわしいわけだ。叔父はかおりさんの作品の名前を知っていたのかな?」僕は例のスカイツリーの話を彼女にした。
かおりさんはおかしそうに笑って「じゃ、名前が一緒なのは偶然ね」といい「空シリーズの器を作るとき、わたしは自分の中にいるこれまでに会った特別な人たちの想いを籠めながらつくるの」といった。「それは一人のこともあるし、複数の人たちの場合もあるわ。それが出来たら、その具体的な反映として器の底に小さな透明な反射フィルムを埋め込むの。うまく埋め込んであるから、見る人はそれが鏡だとは気付かない。覗き込むと底に自分の姿がうっすらと見えるだけ」
「なるほど」
「この空シリーズのテーマは、“わたしの中にわたしはいない”というものなの」
「なんですって?」
「“わたしの中にわたしはいない”というのは、“わたしの中にはあなたがいる”ということよ」とかおりさんはいった。
「それはどういう意味でしょうか?」
「光線の具合で器の底にあなたの影が映るでしょ。あなたって、勿論篠田竜さんのことだけではなく、この器を手にする全ての人たちのこと。この作品の中にいるのは、わたしではなくあなただってこと」
「しかし“わたしの中にわたしはいない”ってことは、器を覗きこむ僕の中にいるのは篠田竜ではなくて、かおりさんや他の人たちだってことですか?」
「そう、そこでまた逆転するの」
「でも、僕の中には僕がいると思うな」疑問を抱いたり異なった意見があると、相手が誰であれすぐそれを口にしてしまう。僕の悪い癖だ。
かおりさんは僕の疑問には直接答えず「いまちょうど吹きガラスで花瓶を作っているところなの」といって、作業台においてある吹き竿を指差した。「これは空シリーズとは違う注文品けれど、よかったら見ていかない?時間はあるのでしょう」
「はい」空のテーマについては半信半疑だったけれど、時間だけはたっぷりあったので、僕はかおりさんの仕事を見学させて貰うことにした。
(続く)