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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <近世の武士について>

 江戸時代に関する本をいろいろと読んでいる。その内の一冊、『藩と日本人』武光誠著(河出文庫)の中に次のような文章があった。

(引用開始)

 豊臣秀吉は、天正十年(一五八二)から太閤検地を行った。これは、全国に統一的な支配を確立するために、旧来の荘園制下の複雑な支配を否定したものであった。秀吉は、これにより支配者である武士と支配される側の農民との区別を明らかにし、直接生産者である農民の自立をはかったのである。
 この検地による兵農分離のために、天正十六年(一五八八)に刀狩令が出されている。検地により村落に拠る小領主やかれの下の地侍の地位は否定され、全国の土地がきっちり測量されてその広さを石高で検地帳に登録されて、大名の統治のもとに区分された。
 ゆえに、武士は主君である大名から給地や俸禄をもらう形でしか存在できず、先祖伝来の農村を支配して自立することが不可能になった。つまり、太閤検地と刀狩りはそれまで村落に拠り農民と共に生活していた小領主と地侍を、城下町に住む武士と村落に住む農民とに分け、全国の土地を藩に切り分けたものといえる。(中略)
 戦国大名の支配は、配下の村落の領主の意向に左右されていたが、豊臣秀吉のもとで諸大名はおおむね自領に対する一円支配を確立したといえる。このことは、武士を村落の領主から大名に仕える官僚にかえることを意味するものであった。

(引用終了)
<同書47−49ページ(フリガナ省略)>

この形は、江戸時代末までうけつがれる。<父性の源泉II>で纏めた戦国時代までの父性(国家統治能力)の源泉、

(1) 騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(3) 漢字文化=律令体制の確立
(4) 西洋文化=キリスト教と合理思想

のうち、(1)を拠り所とした中世武士団は、近世に入り、「所領の支配者」から「大名に仕える官僚」に変質していったわけだ。例外はあったとしても。徳川幕府が採用した統治の指導的思想・教義は、漢字文化である儒教(朱子学)だった。(1)が弱まって、(3)が主流となったと考えることが出来る。

 (3)が主流となったことで、江戸幕府が創り出した、

A 経営体
B 血族

の合体均衡システム「家(イエ)」は、江戸三百年(正確には1603年から1868年まで265年)の間に、次第に機能しなくなっていった。「家(イエ)」システムは、もともと武士思想をベースに設計された。家長は棟梁としての実力を備えていなければならなかった。農工商階層においても家長には統治能力が求められた。しかし(1)が弱まることで、トップは次第に実力のない単なる相続人でも構わぬようになっていった。徳川将軍家でみても、「家(イエ)」システムが十全に機能したのは、八代将軍吉宗あたりまでではないだろうか。

 <父性の源泉>の項で、江戸時代は家(イエ)システムが出来たことで三百年近く平和が保たれた(勿論内包された歪みはあるけれど)と書いた。(1)の弱体化とそれに伴う「家(イエ)」システムの漸次機能不全は、平和に内包された歪みの一つとして、やがて江戸幕府を終焉へと導いていったのである。

 以前(3)が主流だったのは平安時代(<古代の民俗文化III>)。徳川時代が平安時代と異なるのは、古代と近世の違い、武家政権と公家政権の違いの他、

(2) 乗船文化=武士思想の一側面
(4) 西洋文化=キリスト教と合理思想

が傍流としてそれなりに機能していたことである。(2)は特に関西において商業の思想的基盤として、(4)は長崎の出島を前線に蘭学として。このあたり、項を改めてさらに考えてみたい。

追記:

 『兵農分離はあったのか』平井上総著(平凡社)という本が出たので目を通した。著者は兵農分離の特徴を、

㋐ 兵が農民から専門家へ
㋑ 武士と百姓の土地所有形態の分離
㋒ 武士の居住地の変化
㋓ 百姓の武器所有否定
㋔ 武士と百姓の身分分離

と分類し、それぞれの詳細を論じる。「武士の官僚化(例外はあるけれど)」について異論はないが、それは統一政権の政策によるものだけではなく、武士自身の生活様式の変化や社会現象に負う所が大きいという。終章から結論の一部を引用しよう。

(引用開始)

 本書の検討をもとに、『兵農分離はあったのか』という本書のタイトルに対する筆者の考えを記せば、「兵農分離という状態は、結果的に近世のかなりの地域で生じたが、兵農分離を目指す政策はなかった」となる。
 兵農分離の特徴のうち、㋐と㋓は戦国期と近世である程度、共通していたから除くとして、㋑・㋒・㋔三点は、豊臣期の頃を境目として変化していた。となると、近世の兵農分離社会とは、この三点(土地所有・居住地・身分の分離)を特徴とする社会であったと言えなくもない。特に、㋔身分の分離に関しては、その状態を目指した政策の影響が大きいから、身分分離制度として捉えるべきかもしれない。ただ、㋑土地所有と㋒居住地に関しては、完全な分離を統一政権が指示していたわけではなく、大名たちも一律に目指していたわけではないから、さまざまな条件のもとで発生した社会現象(とその定着)と言うべきであると思われる。近世の兵農分離社会とは、制度と社会現象の両方からできていたのである。それ故に、現象面では、兵農分離から外れる事例も多かった(郷士や在郷制など)。(中略)
 生活様式の変化は、武士たちの考え方にも影響を与えた。領主として領地を経営すべきという考え方が残る一方で、領主であることを負担に感じる者も出てきたのである。こうした志向が武士たちに生まれたのは、自分の領地の経営に費やす時間よりも、城下町に住み、役方・番方として勤める時間や、大名に従って京都や江戸、そして戦場に赴く時間が圧倒的に増えたという生活実態が、大きな影響を与えたのではないかと思われる。武士の官僚化、あるいはサラリーマン化は、上からの政策による影響もあるが、生活様式の変化によって引き起こされた、彼ら自身の思想の変化もまた影響していたのである。熊沢蕃山のように、思い切って武士のあり方や領民との関係を変えることで、現状を打破しようとする思想家もいたが、結局、この現象は収まらなかった。
 武士たちは、自ら兵農分離現象の流れに身を委ねていったのである。

(引用終了)
<同書 293−297ページ>

本書は史料の引用も多く当時の社会実態を知る上で興味深い。とくに西日本諸藩での兵農分離の例外(郷士や在郷制など)は、幕末の動乱を考える上からも注目に値する。この西日本諸藩、とくに西南雄藩(薩摩、長州、土佐、備前)の特殊性(例外性)は、『藩と日本人』武光誠著(河出文庫)においても第七章「古さと新しさを兼ね備えた薩摩藩」で指摘があった。本文の最後に書いた「項を改めてさらに考えてみたい」事柄の一つである。
「百花深処」 <近世の武士について>(2017年10月21日公開) |目次コメント(0)

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