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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <武士のルーツ>

 <父性の源泉>で研究したいと書いた武士のルーツ。これについては諸説あるが、私は坂東の騎馬文化そのものに注目したい。

 坂東とは、令政の行政区画では武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の八ヵ国を指し、一般的には相模の足柄坂、上野の碓氷坂以東の地域をいう(「武士の誕生」関幸彦著・講談社学術文庫より)。

 ブログ『夜間飛行』「日本海側の魅力」の項で、“私にとって日本海側への旅が格別な理由がもう一つある。それは古代史に関わる関心事で、日本列島への文化の流入ルートとしていわゆる「時計回り」、シベリアから北海道をへて東北、北陸へと伝わった筈のヒトとモノのトレースに興味を持っている”と書いたが、「時計回り」には、大陸から船で東北、北陸へ入ったヒトやモノも含む。

 同ブログ「古代史の表と裏」の項で紹介した『古代史の謎は「鉄」で解ける』長野正孝著(PHP新書)には、日本海の海流と漂流難民航路が載っている(74ページ)。サハリンから大陸沿いを南下するリマン海流と、対馬海峡から日本列島沿いを北上する対馬海流。この二つの海流(と風)を上手く掴めば、大陸沿岸を出た船は列島の日本海側沿岸に着く。

(引用開始)

 私は紀元三世紀の倭人は「倭国大乱」で準構造船という技術を得たのではないかと考える。帆走技術も得たかもしれない。対馬海峡を全力で漕ぎぬくだけでは大量の人や物資を運べない。どうも「倭国大乱」で半島東海岸から潮に乗ってゆっくり流れつくような航法が一般化したようだ。これによって馬が運ばれるようになった。
 
(引用終了)
<同書 77ページ>

北方アジア由来の騎馬文化は、大陸から船によって東北、北陸へ伝わり、それが坂東に齎されたのではないだろうか。九州・関西経由ではない武士のルーツ。

 少し長い引用になるが、上記「武士の誕生」終章に拠って、九世紀から十二世紀の坂東の歴史を概観しておこう。「怨乱」「反乱」「内乱」という三つのキーワードでこの時代の坂東を概観、一般的な解説として分かりやすい。

(引用開始)

 どんな地域にも、歴史のなかで切り取った場合に似つかわしい時代がある。地域が自己を主張する。そんな時代がある。坂東にもそれはあてはまる。坂東の語感に宿された兵なり武士の時代は、地域としての履歴を飾るうえでふさわしい。武家の政権を誕生させた坂東は、中世という時代の原郷であった。
 そうした坂東の履歴を、武に焦点をすえて述べてきた。そこでのポイントは、奥州=東北との相克が軍制に与えた影響である。九世紀来の蝦夷との戦争で坂東に打刻された兵站基地としての性格だった。この“武の遺伝子”の組み込みが、その後の坂東の歴史的特質を規定した。徴兵システム解体後、軍団制にかわるべく登場した健児制とこれを補完する俘囚制は、傭兵的要素の萌芽ともなった。九世紀をとおした慢性的騒擾や軍事的緊張(蝦夷問題や新羅問題)への対応として俘囚の活用が進められたが、これが同時に群党勢力と結合し、坂東のアナーキーは深刻化するに至った。九世紀後半における坂東を中心とした蝦夷・俘囚勢力の相つぐ蜂起は「怨乱」としての側面を有した。
 九世紀末から一〇世紀初頭にかけての王胤(軍事貴族)の坂東下向は、この地域の群党の鎮圧に効果を発揮した。親王任国が設定された九世紀の坂東にあっては、少なからず軍事貴族を育む基盤が形成されつつあった。都にあって洗練された武芸を体得していたかれらは、兵(つわもの)とよばれた。留住・定住のすえ、地方名士として坂東各地に勢力を拡大する。のちに領主として成長するのは、こうした兵の子孫たちだった。
 一〇世紀半ばの将門の乱は、坂東の地域が覚醒させた兵による「反乱」だった。軍事貴族将門が王胤の末裔として、京都の天皇(本皇)に異旗を立てた。「新皇」としての将門の王国は未遂に終わったが、武士の誕生にとって果実が与えられた。それは、乱の鎮圧者――平貞盛・藤原秀郷・源経基――がその武功ゆえに四位・五位の位階を与えられ、名実ともに軍事貴族に列せられたことである。厳密な意味での武士とは、かれらの子孫たちが各地域に繁茂し、在地領主としての風貌を明確にした段階で誕生する。
 一一世紀前半の平忠常の乱は、兵から武士への転換に位置したもので、私営田領主の最後の反乱といわれる。将門の乱以降、権門との連携を中央で強める一方で、地方にあっては地盤の強化が進められていた。忠常の乱はそうした天慶の乱での勝ち組同士の地盤・勢力争いとしての性格も認められる。この坂東の再分割に乗じ、自己を主張しはじめたのが源氏の諸勢力だった。
 畿内を中心に地盤形成を進めていた清和(陽成)源氏は、満仲以降、摂関家への武的奉仕によって「都の武者」の地位を不動のものとしていた。忠常の乱は、坂東への進出をもくろむ清和源氏にとって絶好の機会となった。頼信以下、頼義・義家・義朝に至る歴史は、乗り遅れた坂東への勢力扶植の動きとしてとらえられる。八幡神の勧請をふくめ、坂東武士との主従関係の構築、さらには権門との政治勢力を背景とした坂東諸国への受領任命など、いずれもが、坂東を基盤としない源氏の対応といえた。
 一一世紀後半は、兵が武士へとその風貌を明確にする時期でもあった。武芸を業とした兵が地域に根ざした「住人」と化したとき、在地領主が登場する。自己の氏名に「地名」を冠するような段階の武士、これが中世という時代に再生産された在地領主的武士ということになる。東北=奥羽を舞台とした前九年・後三年の合戦は、源氏が坂東からその射程をのばすうえで、飛躍をもたらした。
 ここに登場する「坂東の精兵」たちのなかには、鎌倉幕府の樹立に参じた武士の始祖もいた。奥羽を舞台とした二つの戦争は、武家としての源氏の勢威を高め、合戦に加わった多くの武士に棟梁推戴の条件を可能にさせた。源氏は、奥羽を利用することで自門の勢力増殖に成功したといえる。
 坂東に蓄積された武威の力は、「内乱」の主導勢力と結合、ここに権門としての新しい政治勢力を誕生させる。鎌倉に樹立された武家の政権は、辺境の坂東をステップとすることで中世国家の一翼を担うことになった。頼朝に結集したかれらは、兵の末裔として在地領主へと転身した武士であった。“武士の武士による政権”がもたらしたものが、東アジア世界での異端だったとしても、中世の現実は、この武士を受け入れることで「内乱」を終息させた。
 「坂東の履歴」というテーマに即していえば、特筆されるのは、やはり東北=奥羽とのかかわりである。古代から中世にかけて、地域としての歴史が武の世界で発揚した例は多くはない。その意味で東北との相克は、地域としての坂東に武の錬磨を体験させたといえる。
 第一次の蝦夷との戦争と、それから断続しながら現象する九世紀の蝦夷・俘囚問題しかり、そして前九年・後三年両合戦に象徴される第二次の戦争しかり、ということになる。両者ともども「怨乱」「反乱」として認識しうるとすれば、頼朝による欧州藤原氏との戦いは、「内乱」の延長に位置した第三次の戦争ということになる。

(引用終了)
<同書 271−275ページ(フリガナ省略)>

中世武士の思想は、坂東と東北=奥羽との相克のなかで生まれた。広辞苑によると、「相克」とは「両者が互いに勝とうとして相争うこと」とある。しかし、坂東地域と東北=奥羽の関係は、武力対立ばかりではなく、友好協力といった面もあったと思う。騎馬文化は、双方を跨ぐエトス(「ある民族や社会集団にゆきわたっている道徳的な慣習・雰囲気」広辞苑)として、武士思想のルーツとなったのではなかろうか。

 最近、新潟市東区の「牡丹山諏訪神社古墳」から、五世紀初めの古墳時代中期のものとみられる鎧片が見つかった。新聞記事(東京新聞4/30/2017)によると、古墳時代の鎧としては日本最北での出土、同古墳ではこれまで、円筒埴輪や朝鮮半島由来とみられる須恵器なども出土しているという。当時鎧を作る技術は畿内にしかなく大和政権とのつながりを示す資料として研究者から注目されていると新聞は書くが、それは列島内に限ったこと。鎧の由来については半島や北方アジアとのつながりも視野に入れた方がよい筈だ。これからも、武士のルーツとして、騎馬文化に注目してゆきたい。
「百花深処」 <武士のルーツ>(2017年06月15日公開) |目次コメント(0)

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