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■オリジナル作品:「百花深処」(目次

「百花深処」 <「神国日本」論 III>

 前回<幕末の国家統治>の項で、イギリスが反幕府勢力(薩長中心)支持を決めた後、

慶応2年(1866)1月:薩長同盟成立。
同年7月:将軍家茂大阪で死亡(20歳)。
同年8月:長州征伐休戦の勅令が下る。
同年12月:15代将軍慶喜(徳川斉昭七男)就任。
慶応3年(1867)1月:孝明天皇死亡(35歳)。
同年2月:新天皇即位。

という経緯で、反幕府勢力による王政復古がなされ「国家神道」が作られたことを見たが、将軍家茂と孝明天皇の相次ぐ死と新天皇の即位がこれを可能にしたことは論を俟たない。将軍家茂と孝明天皇は共同して「公武合体」を目指していたのだから、二人がいなくなれば統治方針を変えることが容易になる。表の歴史では、将軍家茂と孝明天皇はそれぞれ病死、新明治天皇は孝明天皇の子であるとされている。しかしそうではないと考える人も居る。

 たとえば<日本陽明学について>の項で引用した『明治を創った幕府の天才たち』副島隆彦+SNSI副島国家研究所著(成甲書房)の前作『フリーメーソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』副島隆彦+SNSI副島国家研究所著(成甲書房)には、

(引用開始)

 徳川慶喜が将軍になったのは、実は徳川幕府(江戸時代)の最後の10カ月だ。たったの10カ月だ。14代将軍家茂が大坂城で暗殺された(1866年7月20日)。家茂は優れた人物だった。20歳で不可思議な急死をしている。その半年後には孝明天皇も京都御所の中で突然死んでいる(1867年1月30日、35歳)。天皇と将軍という日本国の最高権力者2人が次々と殺されたことが、本当は幕末最大の事件なのである。

(引用終了)
<同書65ページ(フリガナ・傍点省略)>

とある。明治天皇が孝明天皇の子ではなく長州が匿っていた(南朝の末とされる)大室寅之祐であるという説は有名だ。正史(表史)に対する裏史(外史)だが、これらの説を見てゆくと、正史だけだと分からない事の繋がりが見えてくる。

 <「神国日本」論 II>では、信長暗殺秀吉主犯説と家康すり替え説を引いて、秀吉・家康がその統治正当性を「神国日本」に求めた主要因としたが、イギリスと反幕府勢力は、この歴史を奇貨としたのではないだろうか。薩長の中間(ちゅうげん)・下級武士、京都の下級公家たちが将軍家茂と孝明天皇を暗殺し明治天皇をすり替える。そして統治正当性を「国家神道」に置く。戦国末の再現、いやそれ以上だ。天皇が国民の上に立ち神聖不可侵であれば、誰もその命令に逆らえなくなる。こうして明治期の国体(天皇の国民)が作られた。

 尤も、イギリスと反幕府勢力は歴史をそこまで知らなかった可能性もある。偶然同じような策略を巡らせただけかもしれない。幕府中枢にしても過去のことがどこまで言い伝えられていたかは分からない。しかし国学や水戸学を中心に「神国日本」という統治正当性思考は生きていた。尊王攘夷が叫ばれ、朝廷の意向を無視し日米通商条約に調印した大老井伊直弼は水戸藩浪士らに殺された。幕府中枢に過去の知識があったとしても、当時「神国日本」論の勢いは止まらなかっただろう。いづれにしても策略は表に出なかった。「歴史は繰り返される」こととなった。

 <「神国日本」論 II>の項で紹介した『史疑・徳川家康の事蹟』(村岡素一郎著)が出版されたのは明治35年のことである。同書を論じた『史疑 幻の家康論』礫川全次著(批評社・2007年発行新装増補改訂版)のまえがきに(同書紹介が本書第一の目的であるとした上で)次のようにある。

(引用開始)

 本書において、私は『史疑』を次の三つの視点から捉えた。
 @ 徳川家康の出自論としての『史疑』
 A 明治国家論(藩閥政治批判)としての『史疑』
 B 貴賤交代論を主張した本としての『史疑』
 従来、『史疑』に対してなされてきた評価は、@としての『史疑』であった。Bについては殆ど触れられなかったし、Aにいたっては、これまで誰も指摘しなかったことであると思う。これらの視点を、読者に納得していただけるように説くこと、これが本書の第二の目的である。

(引用終了)
<同書 3ページ>

明治35年になってようやくAとBの論点が出てきた。貴賤交代とは上下階級の交代だが、反幕府勢力は主に薩長の中間(ちゅうげん)・下級武士、京都の下級公家たちだった。それは世良田元信という忍者集団の棟梁が家康にすり替わったことと一緒だという。イギリスと反幕府勢力の策略の一部が露出したわけだ。礫川はこのあたりのことを作家・丸谷才一の書評を引用ながら次のように書く。

(引用開始)

 さすがというか、丸谷氏は、この本で礫川が最も強調したかった点をズバリ見抜き、次のように評した。

 礫川いわく。『史疑』は家康の出自を論じると見せかけて、実は伊藤博文、山県有朋という当時の顕官二人が、維新前は中間(ちゅうげん)で武士ではなく、下級武士と呼ぶのも不当であることを諷している。村岡は両人がお手盛りの爵位制度で華族になったことに憤慨していたのだ。民友社社長徳富蘇峰はこのメッセージに気づかずに刊行したのだが、注意されて回収し、絶版にしたのだろう、と。正解だと思う。

 村岡素一郎著『史疑 徳川家康の事蹟』は「家康替え玉説」を展開した本であり、その解説である『史疑 幻の家康論』も、村岡の「家康替え玉説」の是非について考察しようとした本であった。しかし、『史疑』という奇書を読み解いているうちに私は、同書で村岡が指摘したかったのは「家康替え玉説」よりは、むしろ「貴賤交代論」であり、しかもその「貴賤交代論」に「隠れたメッセージ」が含まれている事実に気づいたのである。『史疑 幻の家康論』では、努めてそのことを強調したつもりだったが、読者の関心は概して「家康替え玉説」に向けられたようで、「隠れたメッセージ」の重要性を理解してくださる読者は多くはなかった。
 それだけに、丸谷氏の評に接したときは本当にうれしく思ったのである。
 『史疑 幻の家康論』を書く数年前から私は、明治国家の「いかがわしさ」に関心を抱くようになっていた。

(引用終了)
<同書 172-173ページ>

「明治国家のいかがわしさ」の解明は、このように今も少しずつ行われている。「神国日本の生い立ち」の究明も、今後の為に、並行して進められなければならないと思う。
「百花深処」 <「神国日本」論 III>(2019年06月06日公開) |目次コメント(0)

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